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↓『ぼくたちの洗脳社会』(岡田斗司夫著、朝日文庫、1998)より引用(07)


十九世紀のイギリスの社会学者、アンドリュー・ウールは次のように述べています。
「いったん成長期を過ぎてしまったら、農民の子でも職人の子でも、優秀な工場労働者に仕立てるのは不可能である。若者を、あらかじめ産業制度用に育てられれば、あとの仕込みの手間が大幅に省ける。すなわち公共教育こそ、産業社会には不可欠である。」
これに関して、トフラーはこんな感じで分析しています。
「工場での労働を想定して、公共教育は基礎的な読み書き算数と歴史を少しずつ教えた。だがこれは、いわば『表のカリキュラム』である。その裏には、はるかに大切な裏のカリキュラムが隠されている。その内容は三つ。今でも産業主導の国では守られている。時間を守ること、命令に従順なこと、反復作業を嫌がらないこと。この三つが、流れ作業を前提とした工場労働者に求められている資質だ」


今、私たちみんなが受けてきた義務教育には、実はこんな目的があったのです。
義務教育の目的として、最も大切なことは知識の修得ではなくて、集団生活を学ぶことだ、とはよく言われることです。
が、「集団生活を学ぶ」というのは、実は工場で機械的な集団作業をこなすための練習だったのです。つまり流れ作業員養成用特別システムです。
こうして、日曜には教会に行き、普段は家族から少しずつ農作業を教わるだけだった子供たちは全員、数年もかかる流れ作業養成講座を受けることになりました。そしてその成果はめざましく、次々と造られる工場の優秀な工員として、彼らは続々と育っていったのです。


↑(引用ここまで)
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学校教育の『裏のカリキュラム』。
「今の時代、いったい何のために”学校”が必要なのか」と考えてみれば、誰もが気づけることでは、あります。
しかし、ここまではっきりと『工場で機械的な集団作業をこなすための練習』をいまだに我々現代人が続けていることを認識している人が、はたしてどれだけいるでしょうか。


…「学校」は、高度経済成長期よろしく、『時間を守ること、命令に従順なこと、反復作業を嫌がらないこと』をトコトン刷り込む『流れ作業員養成用特別システム』としての位置をこれからも続けていくのか。


…それとも「学校」は、「数学を勉強することで”論理的思考”が身につくんだ!」「歴史を勉強することで多様なものの見方が身につくんだ!」といった、実証もできないようなフワフワした理由で、「国語・数学・理科・社会・英語」のカリキュラムをこれからも続けていくのか。


…はたまた「学校」は、古代ギリシアの「アカデメイア」のように、「贅沢」としての「知」を鍛えるための、自分の人生を豊かにするためだけの(そういう意味では”役に立たない”)「学問」に耽る場所と開き直るのか。


少なくとも、戦後から続いている「みんながみんな、時間を守って、きまりを守って、社会生活には役に立たないかもしれない”国語・数学・理科・社会・英語”を9年間以上勉強する」スタイルをこのまま続けている状態は異常だと、私は感じています。
そして、これに対する代案がほとんど出てこない状況にも。


社会学者か何かが「第三次産業・サービス業で働く人が多くなってくるのだから、今までのカリキュラムに縛られず、コミュニケーション能力を伸ばしたり、インターンなどの実地体験をすべきであって云々」と偉そうに言うものの、「じゃあ”国語・数学・理科・社会・英語”を学ぶのをやめるの? 一体誰が何を教えるシステムを作るの?」という問いに答えられる代案を示しているのを、私は見たことがありません。


「コミュニケーション」という教科を作ったとして、誰が何を教えるのか?
「社会体験」というカリキュラムを作ったとして、いったいどの企業や公共産業が、全国の子どもたちを受け入れるのか?
本当に「国語・数学・理科・社会・英語」はいらないのか?
「人生を豊かにする」ためだけに、「学問」を学ぶという選択肢は必要ないのか?


私とて代案を今すぐ出せるわけではありませんが、「多様性」をいくら謳ったところで、「国家」として「必要最低限」国民に課したいレベルは決めなくてはなりません。
それは本当に「コミュニケーションスキル」なのか。
「命令に従順で、時間を守れること」なのか。


みなさんも、何が日本の子どもたちにとって「必要最小限」なのか、みつなりと一緒に考えませんか?


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