先日、ある人がチャット上で突然「死ね」などと誹謗中傷されて「それはおかしいだろう」と口論になり、その相手は言いたいことだけ言って逃げていったという話を聞きました。
さらに、それを傍観していた人たちからは「大人なんだから我慢しろ」と、なだめる声があがったりもして、「将来の世の中を良くしたいと考えることはいけないことなのか」「責任感を持って行動してはいけないのか」「いくら他人とはいえ、注意すべき人間がいたら注意すべきだろう」と彼は考えたそうです。
…私もしょっちゅう、その人と同じような衝突現場に出くわしては、「自分のポリシーに従って行動する」ことと「価値観の押し付け」について、考えてしまいます。。
「将来の世の中を良くする」「責任感を持って行動する」という彼のポリシーを好意的に思う、たとえば私のような人間が彼に注意を受けたなら、なんとか自分に反省を促すこともできるでしょうが、一方で社会的ポリシーを全く持っていない人たちに対してどう接したら良いのか、いつも迷うのです。。
私も、道端のゴミやタバコの吸殻なんかは平気で拾って歩きますし、公共の場でうるさい人らを見かければ「ちょっと静かにせえや」と注意もします。
…でも、「それは価値観の押し付けになっていないか?」とすぐに自己反省したりも、します。。
彼の言うように、私も「将来を創造するということに責任感を持つべきだ!」と声を大にして言いたいのですが、「自分は日本の将来なんてどうでもいい。自分のことで手一杯だ」という返答をされたら、「それは情けない考え方だ」といくら言ったところで、本人が本気で「何で向上心を他人に強制されなきゃいかんの?」と思っていたとしたら(実は後に引けなくなっているだけだとしても)、話は平行線のままで終わってしまうことは、明白です。。
…自分の中での正解は、出ているんです。
自分のできる範囲で、自分のポリシーに従って、他人を注意したり、注意されたりして、影響しあって生きていくしかないと。
…でも、私はこうも思うのです。
「『向上心ある生き方』を美しく感じる」ということすら、多様化した価値観のひとつにすぎない世の中に移行しているのではないか、と。
各個人がそれぞれの「幸せ」を求めて生きることが認められている以上、「向上心なんて古い美徳、持たない方が幸せかも」と心から思えてしまう世代が、どんどん増えていることは、日々肌で感じるのです。
そんな世代に向かって「そんなちゃらんぽらんな生き方では、本当の幸せは得られないよ」とお説教したところで、「短い人生をどう生きようが、自分の自由でしょ」と開き直られたら、どうにも打つ手はないだろうし、そんな若者は、増える一方でしょう。。
そして、私の感じるこの危機感は、産業革命が起きているときに中世の人たちが「日々祈ることもせず、他人の作った服を着て、他人が作った食べものを食べて生きるなんて、なんてちゃらんぽらんな生き方なんだ」と危惧していた状態と酷似している、とも思うのです。
…自分のすべきことは、わかっているんですけどね。
「注意おじさん」はやめませんしw、できる限り私の影響を後世に残して、死んでいきたい。
…でも、今まさに進行しているパラダイムシフトを正確に見届けたいとも、思ってしまうのです。…伝わりますでしょうか?
私がこうして毎週おせっかいな(笑)文章を書き続けるのも、そういった自分の中の「迷い」を整理したいからなのかもしれません。。
