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↓『ぼくたちの洗脳社会』(岡田斗司夫著、朝日文庫、1998)より引用(02)
一昔前の人々の価値観は、簡単に理解できます。なんせ他人事ですから。でも、自分たち自身の価値観の変化を知ることは、案外難しいものです。
アダム・スミスも「あるパラダイムの中にいるとき、そのほかのパラダイムは想像することさえ難しい」と言っています。
犯罪が発生したときに、まるで知っているかのように犯人像を述べる心理学者も、自分の心理は分析しにくい。
冷めてしまった自分の心を、この間まで好きだった人に説明するのは難しい。
自分自身の変化については、案外私たちは自覚していないものなのです。
では、どうするのか。今の若い世代を観察すればよいのです。なんといっても三十年後の価値観は、今現在の彼らの価値観の中に芽生えているはずだからです。日本が高度成長の時代だったときに、当時の若者たちはすでに「成長への否定」を始めていたのです。
今の若者たちの行動や嗜好を見ることによって、私たち自身の自分では気づかない変化を、知ることができるでしょう。
ところで、ここから先しばらくは、いわゆる「若者たち」に対して「彼ら」という表現を使います。これは一度、私たちの中の価値観変化を客観視するための便宜的な手法です。
つまり一度、他人事、として考えると、私たちの心も本音を出しやすいだろう、ということです。
だから「やっぱり彼ら若者は理解できない」などと短絡的な結論に走らないでください。あくまで「私たちの心の中にいる彼ら」イコール「私たちの心の中に芽生えている変化」をあぶり出すのが目的なのですから。
↑(引用ここまで)
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…『「やっぱり彼ら若者は理解できない」などと短絡的な結論に走らないでください』。
これは個人的な感想なのですが…普段の世間話から、ニュースの解説者に至るまで、そんな『短絡的な』結論で片付けようとする人の、なんと多いことか!
確かに、古代エジプトの壁画にさえ「最近の若者はけしからん」なんて記述があったくらいですから、いつの時代も、新しいパラダイムの影響を受け始めている「彼ら」若者は、古い価値観の下で育った私たち大人からすると、どうにも理解し難い存在であることは、間違いないでしょう。
しかし、「違い」を恐れて、若者を批判したり、逆に必要以上に迎合したり、「やっぱり彼ら若者は理解できない」と考えることをやめてしまったりする『短絡的な』対処しかできない「大人たち」にこそ、問題があるのだと私は感じています。
…私だって、電車の中やコンビニの前で座り込む若者や、ケータイ電話を片時も手放せない若者、カラオケや音楽・ゲームなどの娯楽のことでアタマがいっぱいの若者を、好意的な目で見られるわけではありません。
ただ、「周囲の目を気にする必要性を感じない社会になってきているのかも」とか「産まれたときから娯楽産業の宣伝を浴びていたら、そうなってしまうかも」とか、「違い」の「原因」に目を配ることは、できると思うのです。
そして、「原因」と「パラダイムの変化」をつかむことができれば、古い価値観や倫理観を信じ込んでいる私たちの凝り固まったアタマをほぐしたり、旧態依然とした教育システムを時代に合ったものに変化させたりすることができるはずです。
価値観の多様化・細分化と情報の大衆化によって、他人はおろか、自分の子どもにまで「ひとつの価値観」を押し付けることが難しくなった昨今、私たち大人に必要なことは、「やっぱり彼ら若者は理解できない」と世を憂うことではなく、「次代のパラダイムを想像し、その変化へ対応する」ことではないかと、私は思うのです。
…そうでもしないと、自信をもってモノを言えませんよね!
