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↓『ぼくたちの洗脳社会』(岡田斗司夫著、朝日文庫、1998)より引用(01)
1900年代初頭。当時流行の科学雑誌には、こんな特集がよく掲載されていました。
「夢の機械化住宅――1940年までにはすべての住宅にはエンジンが取り付けられ、主婦の仕事は編み物だけになる」
特集の中を見ると、まず派手なイラスト。
住宅の隣に設置された、その家よりも巨大なエンジンのイラストです。もちろん巨大なエンジンからは真っ黒な煙がモクモクと(!)噴き出し、一家の主と息子がその煙を頼もしそうに見つめている。
エンジンから伸びた巨大なシャフトが家庭の各部屋を貫き、高速で回転。シャフトに接続された複雑な歯車装置が、各部屋ごとの機械(掃除機とか皿洗い機、洗濯機、全自動編み物機)を動かす、という仕組みです。
で、すべての家事と編み物からも解放された主婦は、暖炉の隣の長椅子で小型エンジン付きタイプライターで母親に手紙を書いている。
「ねえ、お母様。最新型の機械化住宅って、とっても素敵よ」
この記事も確かに、微笑ましいといえば微笑ましいですよね。私が大学の講義でこれらの資料を見せた時には、けっこうウケました。もちろんそれは、大変好意的な笑いだったのです。
しかしその時から、消し去ることのできない疑問が生じました。
私たち自身も、こんなヘンなことを言ってはいないだろうか。
ひょっとしたら数十年後の人々から見たら、大笑いされるようなことを平気で言いふらしたり、そんな本を読んで感心してはいないだろうか。
↑(引用ここまで)
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『ぼくたちの洗脳社会』は、岡田斗司夫氏のデビュー作で、10年以上前に書かれたものです。
「オタキング」だったり、「レコーディングダイエット」の提唱者だったり、そういう「マニアックで理屈っぽい」面ばかりが取り沙汰される岡田氏ですが、私が彼の着想に好感が持てるのは、本文にもある『私たち自身も、こんなヘンなことを言ってはいないだろうか』という「自己内省」を片時も忘れない点です。
私たちは、多かれ少なかれ、誰かに洗脳されて生きています。
「自分は誰にも洗脳されていない」と断言できる人なんて、いないはずです。
たとえば、今日にはじまったことではありませんが、「みんなサッカーやフィギュアスケートに興味があるんだろう?」と言わんばかりの、過剰な「見世物」スポーツ報道。
ひとりひとり興味なんて違うはずなのに、なんとなくそれが、「みんなにとって価値ある情報」だと思ってしまう。または、今まで興味なんてなかったのに、なんとなく気になってしまう。
…そんなとき、「ひょっとしたら、情報の一方的な押し売りを、みんなして喜んで買っているだけではないのか?」「他人の作り出した情報に、簡単に踊らされる自分にはなっていないだろうか?」と「自己内省」できる余裕と洞察力がないようでは、「自分のアタマで考える」自立した人間・ひとりひとりが自立した民主国家にはなれない、と私は考えます。
「別に誰かの洗脳だろうと、フィギュアスケートにみんなで熱狂してもいいじゃないか」「自立? 自己内省? そんなのめんどくさい」と開き直られたら口をつぐむしかありませんが、「そうか、今の日本の状況は異常かもしれない。じゃあどうすれば?」とか「他人にたやすく操られる自分ではいたくない」とか考えることのできる国民性の定着が、間違いなくこの国を進歩させると思うのです。
というか、その定着がなければ、自分勝手の国・日本は、「権利ばかり主張して、義務について考えない甘ったれの家畜人の集まり」として、堕落の一途をたどるのは明白です。
…私が岡田氏の『私たち自身も、こんなヘンなことを言ってはいないだろうか』と、これでもか、というくらいに「自己内省」を繰り返す姿勢を重要視するのは、そのためです。
「フィギュアスケート」も、「プロ野球」も、「天気の話」も、「恋愛」も、「結婚」も、興味をもっていただいて、おおいに結構!
ただ、『ひょっとしたら数十年後の人々から見たら、大笑いされるようなことを平気で言いふらしたり、そんな本を読んで感心してはいないだろうか』と「自己内省」する姿勢を、もっとみなさん持ってもいいんじゃないかと、思ってやまないのです。。
