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↓『江川達也のニッポンを鍛えろ!』(江川達也著、ぶんか社、2004)より引用(15)


だいたい、夫とのセックスに不満を感じるのは、結婚に幻想のかたまりのような恋愛を持ち込むからだ。
「自分をよく見せよう」という誤ったマインドコントロール合戦を繰り広げ合った男女が、戦いの末、結婚。
そんな二人が、本当に自分をさらけ出す素晴らしいセックスができるわけないのである。


そもそも日本の伝統的な結婚制度とは、嫁がお手伝いになるということだった。
そこを忘れてしまっているから、家事をやりながら嫁が、「私はお手伝いに来たんじゃないのよ!」などと口走る。しかし、本来、嫁になることは、”子どもを産むお手伝いになる”ことなのである。


なぜ日本の結婚観がそうした本来のものとズレてきたのか。それは欧米にあった「marriage」という言葉が日本に入ってくるときに、似て非なる日本の結婚と同じものだと結びつけてしまったからである。
欧米においても、おそらく本来は子どもを産むメイドになることだったはずだが、キリスト教的愛の普及、人権をめぐる市民革命といった歴史とともにメイドの部分が目的から外れて子どもを産むというところだけ残ったのだろう。
そして、こうした歴史的変遷を経ないまま、日本に欧米の「marriage」が入ってきたとき、「結婚とは子どもを産むためにセックスをすることだ。なら恋愛だろう」という風に結びつけられてしまったのだろう。


本来、昔の日本文化においては、恋愛感情がないセックスをしても全く問題はなかったはずだ。
しかし、今は「恋愛関係だからセックスをする」妄想がはびこってしまっている。
そんな妄想にマインドコントロールされ、恋愛→セックス→結婚という順序が当然と考えるのが間違いなのである。
愛に満ちた夢のある結婚などは妄想である。現実には決してありえない。
妄想は早いとこ捨ててしまった方がよい。


↑(引用ここまで)
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…日本の「結婚」は、もともと「男がセックス付き家政婦を雇うこと」であったという事実。
また、日本の「セックス」は、本来『恋愛感情がないセックスをしても全く問題はなかった』という事実。
明治以降、欧米文化と妙な融合をしてしまったとはいえ、その文化の延長線上に生きているということを意識している人(特に女性)が、一体どれほどいるでしょうか?


自分はどういう「生き様」を見せたいのか。
どういう形で「オリジナリティ」を発揮して死んでいくのか。
そこに「恋愛」や「結婚」が無条件に入ってくる人(特に女性)に、私は批判的です。
それは、たいていそこには「自分のアタマで考える」だったり「その人の独自性」だったりが抜け落ちているからです。
江川氏風に言えば、所詮「他人の『マインドコントロール』から抜け出せていない奴」の思い込みにすぎない、と感じるからです。


別に、「恋愛」や「結婚」に多く言葉を費やしたって、そこに「オリジナリティ」があれば、いいんですよ。
「こういうおもしろい『結婚』の形をつくってやろう」とか。
「こういう『恋愛』の形だって、アリじゃないの?」とか。
…まあ、たいていの人は、どこかの誰かがつくりあげた「恋愛したら結婚、結婚したら出産・育児」という枠の中に収まり、そこで考えることをやめてしまっているだけだと私は感じているのですが、どうでしょうか?


本来は、男も女も、いつ誰と恋愛してもいいし、だれとセックスしても別にかまわない、という事実。
本来は、「現代を生きていくうえで『結婚』なんてしてもしなくてもいい」「『育児』も、やりたい奴だけやればいい」という事実。


こういった「事実」から目をそらさず、自分のアタマで考え、自分の中にある「嫉妬心」や「結婚願望」も、どこかの誰かに植え付けられたマインドコントロールのひとつにすぎないかもしれない、と思える女性。
簡単に「孫の顔が見たい」なんて言わない、思慮深い親。
そんな「自分のアタマで考える」習慣のついている「自立」した人たちと関わって人生を送りたいと、そう願ってやみません。。


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