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↓『男の器量は女でわかる』(里中李生著、三笠書房、2008)より引用(16)
私は人生で二度、女を追いかけてしまった。
言い訳をするが、付き合ってから、その魅力に取り憑かれ、どうしようもなくなることはある。特に、セックスがよければ、絶対に離したくなくなるから、追いかけることもあるだろう。
私が付き合った彼女は、当時は、私を追いかけていた。毎日のように、「会いたい」とメールをしてきて、ずっと遊んでいた。セックスの相性もよく、それほど経験のない女だったから、私の色に染めるのも楽しかった。
「この女は、俺の愛人として最高」
セックスは楽しい。美人でどこにでも連れて行ける。会話はすごく弾んで、笑いが絶えない。私は彼女に夢中になってしまった。
ある日、彼女と居酒屋に入った。
彼女は、
「最近、過食気味なんだ」
と言い、たくさん、料理を注文して、私に目もくれずに食べだした。
一心不乱に、ガツガツ食べながら、仕事の愚痴をこぼしていた。
醜かった。
付き合った当初にはあり得なかった醜態だった。
美しくて、ファッションもかわいくて、上品に食事をしていた彼女は消えてしまった。それもこれも、私が、「好きだよ」「離さないよ」と毎日のように求愛していたからに他ならない。
もし、私が彼女をもっと緊張させていたら、行儀の悪い格好で、料理を貪ったりしなかったはずだ。
「調子に乗ったら、捨てるよ」
という態度を取っていないと、女は慢心するのである。
私のファンの女の子たちは、私と会う時には、それはそれは綺麗なファッションに身を包んでくる。当たり前である。最初から、ズボラな格好をしてくるわけがないのだ。ところが、女は、付き合いが当たり前になって、「もう別れない」と確信すると、急にいい加減になる。中には、太り出す女もいるのだ。それは、男が、「好き、好き」攻撃をしているからである。
「花子ちゃんは、ちょっとくらい太ってもいいよ。大好き。絶対に離さない」
と言っているからだ。私の周囲にも、そういう男が非常に多い。
もっとも、「自分の彼女は、ちょっと太ったくらいで、嫌いにならないからかまわない」と、ほとんどの男が言うのだろう。
無論、私も鬼ではない。少し太ったくらいで、その女を捨てたりしない。
だが、出会った頃と、明らかに変わってしまった女を見ているのは、私は寂しい。
中には、男と付き合っていくうちに、綺麗になっていく女もいるのだ。そう思うと、やはり私は醜くなっていく女には否定的である。男の責任でもあるから、彼女が自分を律することが出来るように、誘導して欲しい。
↑(引用ここまで)
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…『もし、私が彼女をもっと緊張させていたら、行儀の悪い格好で、料理を貪ったりしなかったはずだ』。
…『彼女が自分を律することが出来るように、誘導して欲しい』。
今回のテーマは、ここです。
『自律』はその人自身の問題ですが、あえて他人の『自律』についても「自分の責任はなかったか?」と考え、自己に反省を促す里中氏の姿勢について、考えたいと思います。
そりゃ好きな人ほど信じたいというのが人情ってもんですが、「それは違うだろう」と言わなくてはならない場面は絶対に、来ます。
それは恋人でも、子どもでも、たとえ家族でも。
だからこそ、『緊張させる』『自律を誘導する』カードを持っておくにこしたことはない、というのが私の考えです。
…ありていに言えば、「教育力」「影響力」を磨いておかないと、恋人からも子どもからもナメられますよ、ということです。
…私が「それは失礼でしょ」とその場その場で言わなかったがために、私にだんだんと気を使わなくなっていった恋人がいました。
…私が「あんまりかしこまらなくていいよ」と言ってあげすぎたがために、平気でタメ口で話しかけてくるようになってしまった後輩がいました。
それはそいつ自身の問題であって、ただ遠慮と気遣いの能力が低かっただけなんじゃないか、と言われれば、そうなのかもしれません。
ただ、私自身の反省として、「対人関係のコントロール」「緊張と緩和のバランスの取り方・見せ方」の甘さがあったことは無視できないのです。
…自分が腹ただしいと思ったらそれをその場でちゃんと伝えないと、それは「今後もやってもいいこと」になってしまいます。
…例外を認めてあげれば、それは必ずクセになります。
そんなこともわからずに、「物分かりのいい大人」みたいな顔をして、「いい人」だなんて言われて恋人や後輩からナメられてまくっていた自分を振り返ると、どうにも情けない気分にさせられるのです。。
当時の私には、「緩和」させるカードしかなかった。
対人関係における「選択肢」をひとつしか持っていなかった。
それだけです。
「緊張」させるカードも、「緩和」させるカードも、もっている。
その上で、相手によってカードをタイミングよく使い分けられる。
…そんな「オトナ」でありたい、と最近そんなことばかり考えています。
「じゃあオマエは人様を注意できるほど『自律』できてるのか?」という自問を突き付けながらも、自分が接する人間の『自律』にも気を配れる自分でありたいだなんて、私もそれだけ歳をとったということなんでしょうか。
しかしその「責任感」「役割意識」こそが、自分のことで手一杯の「コドモ」にはできない、自ら「損」な役割を買って出る「オトナ」の「オトナ」たる所以なのかもしれません。
