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↓『男の器量は女でわかる』(里中李生著、三笠書房、2008)より引用(14)
女が優しくなくなったのは、自分でものを考えることを知らない女の性質に、フェミニズムが付け入った結果のことだ。
(中略)
教育現場や一部のマスコミは、女たちの改造に躍起になっている。なっているというか、すでに改造に成功した。我々男が、「何をおかしなことをやっているのか」と不思議に思うくらい、女を「働かせること」を目指して、それを邪魔するすべてのものを「悪」と決めつけ、その決め付けを大々的に賞賛する。
「女には母性はない」という論文が出ると、真っ先に取り上げるのが大新聞である。そして絶賛。すぐに教育現場にも、その新聞のコピーが出回り、それを女子生徒が読む。母性はフェミニズムの邪魔だから、悪なのである。言い換えれば、子供を育てるのは悪といっているようなものだ。いや、言っているのである。情報に弱い女の子は、それを読んで納得し、「そうか。子供は保育所に預けて、自分は働くのがいいんだ」と思うわけだ。
フェミニズムの女性改造計画は、常に、「女は自分のために生きよ」「優しさを捨てよ」というものだ。夫や幼い子供を置いて、働きに行くのが当たり前で、無論、それを咎める同性の女もいない。
(中略)
フェミニズムは、女たちを特に不幸にしているものではない。だから、ここまで浸透した。当たり前である。なぜなら、「あたしのために生きる」というのがフェミニズムだから、それを実行したら楽しいだろう。単なる我儘、自分勝手になることに過ぎないが、我儘は楽しいものだ。では、女は不幸ではなく、だから、問題はないのではないか、と思うだろうが、人間は助け合いながら生きなければいけないから、女だけが楽しくなっても意味がないのである。
被害を被っているのは我々、男と子供だ。
(中略)
腐敗した世の中の元凶であるフェミニズムについて、もう少し、男たちは真剣に対応すべきである。自分の彼女が、「今時、女が子供を育てることはナンセンス」と言ったら、「それは誰に教わったことだ?」と問い詰めないといけない。その難詰に対して、自分の言葉を持っている女はいない。
↑(引用ここまで)
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…『その難詰に対して、自分の言葉を持っている女はいない』。
今回のテーマはここです。
確かに、男女が平等に働ける法整備は大切です。選択肢は、誰にも与えられて然るべきです。
しかし、仮にそれがきっちり整備されたとして、法に守られた女性たちは、自分のアタマで考え、自分の言葉で語り、そしていったい何を選択するのでしょう?
選択肢は与えられた。それでいったい、女性(あなた)は何を選択するの? 、と。
里中氏は「結局は、多くの女性が仕事の成功より家庭の安泰、安定した生活や育児を望むのは目に見えている」という持論から、「法整備」「男女平等」にばかりスポットを当てることに批判的なのです。
…「スポットを当てることに批判的」。
ここがポイントです。
「自分のアタマで考え、自らを鍛え向上させ、家庭や育児を犠牲にしてでも、できるだけ多くの人間に自分を認めさせたい」と思う野心的な女性が大多数ならまだしも、そうでない現状の女性たちに「選択肢」「自由」ばかりちらつかせてしまうことは、自分が何をすべきかわからない子どもにやみくもに「権利」を与えるのと一緒じゃないか、とまで彼は言います。
確かに、「だれもが自由に生きられる」ための法整備は、大切です。
育児を終えた女性が職場に復帰しやすい環境は、日本においてはまだまだ不十分ですし、雇用や給与の面でも、男女格差がいまだに存在しています。
それらを踏まえたうえで、「あなたはどうするの?」「女性(男性)としてどう生きるの?」と問いかけることも、重要な視点なのではないかと、私は里中氏の文章から感じ取ったのです。
彼の文章を読んで、「女性差別だ」と言うのは簡単です。
しかし、「いくら法整備や意識改革をしても、結局女性たちの多くは『仕事』『死ぬまで一生働くこと』を望んでいないかもしれない」「それどころか、働く『権利』ばかりちらつかされて、『本当に自分が何をしたいのか』を見落としてしまう可能性も無視できないんじゃないか?」という問題意識も、必要な視点ではないかと、私は感じているのです。
…ついでに言わせてもらえば、みんながみんな、「自由に」「自分勝手に」生きたいと躍起になるのも結構だけれども、集団・全体を見渡せる視点、「”不自由に”、”他人のために”という選択肢をもつこと」も、重要だと思うのです。
少子化を嘆くのなら、「子どもを多く持つ」ことにもっと価値が与えられるよう国家レベルでコントロール(洗脳)してもいいと思うし、「円満な家庭」を復活させたいのなら、「自分のためだけに生きない」「家族のために生きる」ことにもっと価値が与えられるようにコントロールしてもいいと思うのです。
実行するには、相当な「不自由」が市民の行動を制限します。
でも、「子ども」「家庭」に価値を置く国にしたいと言うのなら、当然の「不自由」だとも思うのです。
…強制力・不自由をできるだけ排除して、「みんなが自由気ままに生きる」国にしたいのか。
…強制力・不自由をあえて自分たちに課し、「ある共通の価値観・『美しさ』を守っていく」国にしたいのか。
どちらを選択するのかはっきりさせる時期が来ているのに、いまだ「高度経済成長」「自由化の波」の余韻から抜け出せない。そんな気がしてなりません。。