------------
↓『30独身女、どうよ!?』(岡田斗司夫著、現代書林、2001)より引用(30)
岡:『少女革命ウテナ』というアニメがあってね。「お姫様のままで自分だけの王子様を待ち続けていた少女は、待ち疲れて、自分自身が王子様になってしまいました」という話なんだ。確かに今は、どっちかしかない。
王子様を待つのか、王子様になるのか。
応援したい男を見つけるか、自分がそうなるか。
自分がそうなってしまったら、王子様は必要ない。恋人じゃない対等な友達の男だけでOKになる。
恋愛関係がどうしてもほしい場合、母親的になることを恐れてはいけない。
う:応援した男をみつける、ということ?
岡:母親的がイヤなら、あなたが世界を革命する王子様になるしかない。
う:どっちかですね。
岡:基本はどっちか。
男の子の夢を聞いたりして、才能がある男が好きだったりするっていうのは、自分がこの世界に主体的に関わりたい、というのではなく、サポーターであろうと頑張る人だよね。別にかまわないと思うけど、その場合は彼の母親になることを恐れてはいけない。母親になる責任を逃げようとするのはずるい。
「私、一番のファンなの」って言っていながら、ひいたところから「はいはい、ファンですから何も仕事はしませんよ。夜になって彼が来てくれたら嬉しいわ」というのは、ムシがよすぎ。血を流せ、金を払え、汗を出せ、共に進むのならば。自分が彼の世界へ行って、そんなに頑張ってる人たちを手伝って、一瞬の触れ合いみたいなものを楽しむしかない。
そうじゃなければ、自分が王子様になるつもりで、主体的に生きろ。
↑(引用ここまで)
------------
…『王子様を待つのか、王子様になるのか』。
私は、対等に話せる(私が対等だと思える)人間を渇望しています。
毎日機嫌が良く(良い方向に持っていく術を確立している)、「自分がしゃべりたいからしゃべる」に陥らない対話力を身につけており、自分の衣食住や家族・友人との付き合いのスケジューリングも自分でコントロールでき、日々の安定の中にもおもしろみのある提案ができ、「ありがとう」「ごめんなさい」だったり「遠慮」「奥ゆかしさ」だったりを要所要所で気遣える人。
…要求しすぎだって?
いやいや、いい歳した大人なら、これくらいできて当然でしょ、と言いたい。
少なくとも、私自身はこれらの「あたりまえ」が身に付いていると自負しています。
そのうえ女性であれば、化粧をしたり、着飾ったり、男にはない外面的な「美しさ」の追求と楽しみもあるのです。
そうなったら、能力が同じである場合、我々男性は絶対に女性にはかなわない、と思うのです。
人間として、ひとりの大人としてまともに行動できる上に、女性としての魅力もある。
少なくとも、自分と能力が対等かそれ以上でないと、私はその人と対等に付き合えない、と思うのです。
『王子様』とは言わないまでも、「ライバル」くらいではあってほしいですよね。
一方、『王子様を待つ』関係も、私は別に否定しません。
「主人」と「召使い」。
「保護者」と「被保護者」。
「能力がある者」と「それを応援する者」。
こういう「主従関係」と呼べるようなケースは、(当人たちが気づいていなくても)たくさんあると思います。
自分が「主人」たりえないのなら、「召使い」となって、主人に食わせてもらう。たとえ、それが精神的な依存であっても、当然ありうる流れです。
まあ、お世辞にも「主人」とは呼べないような人が、能力や適性がないくせに「主人」ヅラをして、「召使い」を苦しめているケースも少なくないようにも見受けられますが。。
そう思うと、以前にリリー・フランキー氏が「中途半端に対等な関係より、絶妙なバランスの上に成り立った主従関係は美しい」と言っていたことが思い出されます。
「主人」も「召使い」も、自分の能力と適性を正しく自己評価した上で、その役割に徹する。
そんな関係も、ひとつの理想型だとも、思います。
…あなたは、「王子様」ですか? 「応援者」ですか?
「主体性が大事」だの「みんなが主人公」だの、個人の能力と適性を度外視した甘っちょろい平等主義がはびこる中、自分がどれくらい「主人」的か、自分がどれくらい「奉仕」に喜びを感じるか、今一度冷静にお考えください。