------------
↓『哲学』(島田紳助・松本人志著、幻冬舎、2003)より引用(06:松本)


僕は正直いって、日本人に対して、すごくイライラしている。
弱者に甘いというか、弱い人間に寛大すぎる部分がすごく嫌いだ。
バリアフリーとかそういうことをいっているわけではないから念のため。
「負けたけどよう頑張った」みたいな、よくわけのわからない賛美の仕方をする。
サッカーにしてもそうだけど、「勝ちにひとしい負けだ」みたいなことを平気でいってしまう。なんじゃそら、といいたい。
銀メダルを取ったら、「いやこの銀はものすごく大きい。金メダルに決して負けていない」みたいなことをいう。下手したら、金より上の銀だ、くらいのいい方をする。
それなら、今まで金メダルとった奴を全部否定するっていうんかい、といいたい。
「負けて勝った」ということの、意味がわからない。
勝ち負けを決めるために、勝負をするのに。
負けは負けなのに。
にもかかわらず、そういう中途半端な考え方をする人間がすごく多い。


そして、強いものを認めない。
すごく才能のある人間とか、人と違う考え方を持った人間がいると、それこそみんなでよってたかって押さえつけようとする、認めようとしない。
そういう雰囲気がものすごく嫌いだ。
これは日本が戦争に負けたということが大きいのだと思う。
負けて勝ったと思いたいのだ。
僕はアメリカをよく知らないけれど、よくアメリカは逆だという話を聞く。
勝った者を認める。すごい奴は、すごい! と認める。
それが本当だろう。
だからといって、100パーセント、アメリカみたいにせい、といっているわけでは全然ないので、誤解しないように。
どちらかといえば、日本らしくせいよ、と感じている方が大きいのだ。



↑(引用ここまで)
------------


…『勝った者を認める。すごい奴は、すごい! と認める。それが本当だろう』。
「力こそが正義」。ニーチェはキリスト教を弱者の宗教だと批判し、そう言いました。
腕力や、財力や、権力を持っている奴の力そのものを、まずは素直に認めろ、と。
「高学歴の奴は、性格が悪い」「金持ちは、汚い」みたいな安直な「強者」非難は、我々の日常のあちこちにあるような気がします。
たとえば、「あの人、仕事ができる人なんだけど、付き合い悪いよな」とか言うときもそうです。
いやいや、その人より仕事ができない奴が、それ言っちゃイカンやろ、と。


…「【哲学】37:マスメディアと洗脳」で、私はこう書いています。↓


ニーチェはキリスト教を、弱者のひがみ(ルサンチマン)から作られた宗教だと言い切りました。
権力もあり、腕力もあり、カネもある。
そんな少数の「強者」が多くの富を得、大多数の「弱者」は富を奪われる。
そこで、弱者は「道徳」というものを作り上げました。
「思いやりの気持ちは、正しいことだ」
「弱者に優しくすることは、正しいことだ」
「奴隷制度なんて、あってはならないことだ」
「争いごとは、良くないことだ」
「自分の利益ばかり追い求めることは、醜いことだ」と。
力のない者が優位に立てるように、弱肉強食の原理を人工的にひっくり返したのです。
「力のある者が、能力相応の利益を得る」ことが、まるで悪いことであるかのように。
そして、その価値観の延長線上に我々は生きているのです。


…簡単ではありますが、これが、いわゆる「道徳」の系譜というやつです。
現代では当たり前に「良いこと」とされる「弱者救済」の考え方そのものの出発地点は、たどりたどっていくと、ここに行き着くとニーチェは言うのです。
弱者の側からの、ひがみの発想。それが「道徳」の出発地点だったと言うのです。

よくよく考えてみれば、強者が「弱者を救済」しなければならない理由なんて、どこにもありゃしないのです。
それどころが、弱者に対する中途半端な「憐れみ」や「同情」は、相手に対して失礼にあたる、とさえニーチェは言ってのけているのです。


確かに、飢えた人になけなしのパンを与えて逃げ去るイエス・キリストは素晴らしいと思います。
でも、その素晴らしさを受けて、「みんなやろうぜ」と強制されたり刷り込まれたりした状態で同じことをやるのでは、そこには必ず欺瞞や優越感が生まれてしまうと思うのです。
「自分がそうしないではいられないから、してしまうこと」と、「他人に優しくするのは良いことだ、と思ってすること」を、一緒にするなと言いたいのです。
だから、「自分がそうしたいから」出発ではなく、弱者が優位に立つためのシステムにイエス・キリストが利用された事実を皮肉って、ニーチェは「神は死んだ」と言ったのです。


松本氏が腹を立てている「強者をどう評価するか」という問題も、つまりは弱者や「道徳」、「同情」についてどう考えているかに拠る、とそう思うのです。



人気ブログランキングへ