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↓『フロン』(岡田斗司夫著、海拓舎、2001)より引用(02)



1948年、ニューヨークのマンハッタン郊外にレヴィット・タウンという分譲地が販売されました。このレヴィット・タウンが画期的なところは、住む人たちのライフスタイルまで提案したことでした。
「男は仕事、女は家庭」
「妻は校外の新築の家で子育てをして、夫は都会に通勤する」
「一族親戚のしがらみから逃れて、親と子どもだけ(核家族)で生活する」
こんなライフスタイルの提案は、当時の米国で熱狂的に受け入れられました。
雑誌の広告でも、この新しいスタイルは「新時代の理想像」として図案化やイラスト化が繰り返されました。やがて放映がはじまった新時代のメディア、テレビでも『パパは何でも知っている』『うちのママは世界一!』など、この郊外型、核家族型スタイルは「あるべき家庭の理想像」として全米の視聴者を魅了したのです。


敗戦の混乱から抜け出し、高度経済成長への道を歩み出した当時の日本人も、この家族モデルに激しくあこがれました。米国本国ですら「商業的に作られた理想像」にすぎなかった家族像を、「目指すべき目標」として猛烈に追い求めたのです。


時代も後押しに荷担しました。
敗戦国日本は、工業国として復活し、再び世界にうって出ることを望みました。そのため大農家は解体され、それまで大部分の人が所属していた大家族、家父長制という制度も崩壊したのです。

新しい時代の「核家族」は、女性を暗黒から救い出してくれました。
女性を縛り付けた「イエ」(農家)が解体され、自分自身で結婚相手を決めるという行為が当たり前になってきたのです。


昔の大家族だと、結婚相手の家族に認めてもらう必要があります。同居するのですから、当然のことです。
が、お互いに家から独立して都会で結婚し、そのままふたりで暮らすなら話は違います。べつに親や兄弟や親戚の同意を得る必要はありません。好きな相手と暮らす、そんな夢のような生活が可能になったのです。

恋愛結婚というのは、大家族を失った代償として急激に拡大した個人の権利といえます。
家というのがそのまま自分の仕事も意味していた時代から、職場を求めて自分の家(住所)を定める出稼ぎ生活。それがいまの我々、都市生活者の本質なのです。


高度経済成長の核家族の場合、各構成員に要求される機能は明確でした。
夫は外でしっかり働き、妻は家でやりくりをし、子育てする。子どもは勉強をがんばる。それさえクリアしていれば、誰もが満足だったのです。
特別な愛情などなくても、家族でいることで幸せは保証されていました。

「お年頃なんだから結婚してみなさい。いまはよくわかんなくても、一緒に暮らしてみれば、ちゃんと情がわくわよ」
仲人のおばさんのいうとおり、恋愛感情などなくても、みんながちゃんと自分の役割を果たしてがんばっていれば、温かな家庭は営めたのです。


たとえていうなら、それは一時期の「土地を買う」と同じような感じと捉えてください。
土地を買えば安心。絶対値下がりはしない。家賃を払うなんてもったいない。少々無理しても、早めに買いましょう。
結婚はすばらしい。ちゃんとした人(収入が安定した人)と結婚しさえすれば、絶対不幸にはならない。いつまでも独身でいたら、どんどん結婚しづらくなる。少々、相手に不満があっても、早めに結婚しましょう。


しかし、いまや高度経済成長は終わってしまいました。

なぜ、夫はこんなにがむしゃらに働かなくちゃいけないの?
なぜ、妻はいつまでも家事に縛られなきゃいけないの?
いつまで、良き妻、良き母を演じればいいの?
何のために、子どもは勉強していい大学、いい会社に入るの?

こういう家族の努めに、疑問を持つことが当たり前になってきました。
高度経済成長の時代が終わって豊かさが飽和した時代、新しい幸福像を求めて迷う時代がやってきたからです。


いまの時代の私たちは、そういった家族の努めを全うすることに疑問を持ってしまっています。そのために努力や我慢をすることができなくなってしまいました。
高度経済成長時代に家庭を持った人たちから、その時代の価値観でどんなに親切に助言されても、現実味が感じられなくなっています。


いまもあなたの両親や周囲の男性達は、「結婚しろ」とか「子どもはかわいいわよ」「結婚して女は一人前」というかもしれません。
が、その世代の人たち、それもほとんどの男性は、家庭生活を楽しんだことなどありません。
子どもをかわいがったことも、ほとんどないのです。子どものオムツを替えたこともないし、夕飯を作ったこともありません。夕飯の買い物すらしたことがない、という男性がほとんどでしょう。
そんな男性にいくら結婚をすすめられても、あなたが素直に納得できるはずがありません。


私たちはいままで、基本的には男女平等の世界観で育てられてきました。
あなたの人生にとって、成績やクラスの人間関係だけがものをいった、完全に男女平等の学生時代が一番長かったはずです。20歳前後までの、自分の人格を形成する時期、当たり前の権利としての男女平等だったのです。


いま、結婚を望んでいる人は、家事をすることも育児をすることも、意欲的に考えているかも知れません。しかしだからといって、「女だから家事をするべき」「女だから育児をするべき」という考え方に心から賛成するのとは別問題でしょう。

結婚した相手が、あなたが女だというだけで、すべての家事や育児をこなすこと、そのために、あらゆることを犠牲にすることを、当たり前と考えるとすれば、決して心地いいはずはないのです。



↑(引用ここまで)
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…『恋愛結婚というのは、大家族を失った代償として急激に拡大した個人の権利といえます』。

結婚相手を自分で選べること。
それは、ものすごい「選択の自由」です。


しかし、失ったものも大きい。
家庭内に、料理や子育ての先輩(姑)がいること。
夫婦に問題があったとき、間に入って仲裁してくれる仲人さん。
「常に家に誰かいる」という安心感。

核家族というのは、それをたったふたりだけの夫婦(ほとんどは妻だったりもしますが)でやっていくことを意味しているのです。


子育ても、夫婦ふたりだけで、しつけたり、ご飯を与えたり、夜泣きの世話をしなくてはいけない。
まわりに経験者がいないので、夫婦で起きた問題は、すべて二人だけの力で解決しなくてはいけない。
子どもが家にいるとき、必ず夫婦のどちらかが見ていなくてはいけない。
これらは、考えてみれば、ものすごいリスクです。
大家族では当たり前に得られた助けが、ほとんど受けられないのですから。
「失ったものは、大きい」。
本当に、そう思います。


しかし、私たちはもう、結婚相手を誰かに決められるなんて、とても考えられません。
「選択の自由」を一度味わってしまったら、もう、後には戻れないのです。
あの頃、我々があたりまえに享受していた家庭の「安定」は、その「選択の自由」を得るために犠牲になったのです。


今回、私が伝えたいことは、「安定と自由は両立しない」ということです。

たとえば、校則の厳しい学校では、「自由」が少ないかわりに、学校生活が「安定」しています。授業中おしゃべりする生徒もいなければ、遅刻・欠席をする生徒もいない。安心して授業を受けられます。
一方、校則があっても、教師がそれを厳しく守らせていない学校では、「自由」が多いかわりに、学校生活が「安定」していません。生徒は授業中おしゃべりをし、遅刻・欠席もし放題。これでは、生徒にとっては「ラクな」学校生活であるかもしれませんが、安心して授業なんか受けてられません。


法律も同じです。
「規制緩和だ」「輸入の自由化だ」と、「なんでも自由になれば景気が良くなる」「がんじがらめの規制なんて良くない」みたいな風潮がありますが、農作物の輸入自由化が進んでしまえば、安い外国の農作物に押され、国内の農業は衰退していってしまいます。規制が緩和されれば、我々の「モラル」だけが「して良いことと悪いこと」の判断基準になってしまいます。

これでは「安定」はしない。
儲かる人と儲からない人が二極化され、そして儲からない人は言うのです。「もっと規則を徹底してくれ」と。


別に私は、「安定がすべてだ!自由なんて良くない」とか言いたいわけではありません。
「不安定で自由」を選ぶか、「安定で不自由」を選ぶか。
そのどちらを選択しても、それぞれにリスクがあるということです。

ついでに言えば、一度「自由」にしてしまうと、そこから「不自由」に戻すのはものすごい労力と覚悟が必要なのです。

現に今「親が決めた相手と結婚して、親と一緒に暮らしなさい」と言われて、素直に従える人などまずいないはずです。


…何かを「自由」にするときは、相当慎重になったほうが良さそうです。。


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