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↓『ぼくの生きかた』(島田紳助著、KTC中央出版、2001)より引用(01)


ぼくには三人の娘がいる。
長女は希望した大学へ行き、次女もアメリカの学校へ留学した。
三女も、思ったとおりの中学校に合格した。
なんで、三人とも勉強が好きになったのか、勉強が嫌いだったぼくにはわからない。
ただ、すてきな家族をつくろうと努力してきたし、家族で感動できることをいっぱいしようと努力してきた。
それは、できたつもりだ。
子どもに対して、ぼくはエエカッコをしたことはない。どちらかと言えば、悩んでいる姿や、カッコ悪いところを見せてきた。
それが、ぼくの教育方針といえば、そうだったのかもしれない。
それに、よく怒ってきた。
ていねいに、怒ってきたと思う。

最近も、朝から長女にぶちキレた。
朝、八時半。ぼくは、寝ている長女に呼びかけた。
「おーい、畑の草むしり、手伝うてくれや」
「えー? 何時? 今?」
「八時半」
「もうあと三分で起きて学校行かなあかん。もう起きる。学校行く。……そやから、でけへんわ」
「ほんなら、ええわ」
学校なら、しかたない。ぼくは家を出て草むしりを三十分やって、戻ってきた。
するとどうだろう。長女はまだ寝ているというのだ。さっきの話がほんとうなら、すっかり遅刻だ。
ウソかあ?
そう思った瞬間、ぼくはぶちキレた。
でも、そこで何も言わずに怒ったら、それは「草むしりをしなかったこと」に対して怒ることになる。それは、誤解だ。
普通の親子関係に、そういう誤解はものすごく多いのではないのだろうか。もし、何も言わずに怒ったら、子どもは「うるさいな。自分が草むしりするの面倒くさいから、させやがって」というふうに受け取る。それが、親と子の亀裂になる。

そこで、ぼくは説明しながらキレる。
「待て、ちょっと聞け!」
……オレが「草むしりをしろ」と言う。「堪忍しておっとう、草むしりなんかしたくない。暑いし、しんどいから今日はいやや」と、おまえが言うなら、オレは怒らない。全然、OKや。
おまえはいつもオレにタメ口を聞く。それもOKや。友だちみたいにしゃべることを、失礼とわかっていて、それでもそういうふうにしゃべってくれるんやから、OKや。
ところが、どうや。「三分で起きて学校や」と言うたやないか。それなのに、まだ寝てる。ほんならそれは、学校やというたら草むしりをしなくてもすむと思ったからじゃないのか。
ほんまに起きることができなかった。ほんまに学校にそんなにあわてて行かないとあかんのやったら、なぜ三分、寝てしまう? あと三分なら、飛び起きてご飯食べて学校行けよ。なんで、そんなダラダラしたこと言うのや。学校に対しても中途半端。草むしりも中途半端。そんなダラダラ生活するな。草むしりせえへんのを、学校のせいにして、でも学校にも行かずに寝ていることに、オレは腹が立つ……。
「おまえ、厳しい環境のなかで生活したいといつも言ってるやないか。防衛大学に行きたいくらいやって言うてたやないか。そんなダラダラして、全然厳しくない。ウソばっかりやないか。学校? そんなもんやったら、辞めてしまえ、アホーッ!」
長女は泣いて謝っていた。
「……すみませんでした」
ぼくは、言いたいことを言い切るまで言う。
「もう学校行かなあかん、なんてウソつくな。オレがおまえに怒ってきたことは、いつもそういうことだけや。どうやって人と信頼関係を結んでいかなあかんか。そういうことが大切や。わかるやろう」
そういうとき、嫁さんも横でちゃんと聞いて、意見を言ってくれる。このときは、ぼくの言うことに「正しい」と言ってくれた。


二十歳やから、十八歳やから、という怒りかたもしない。
ぼくはいちばん下のチビにも、ちゃんと説明しながら怒る。
「わがままを言うな」
それを伝えたいとき、ちゃんとその理由を説明する。
……わがままはあかん。でも、ちっちゃいとき、おっとうはわがままやった。おばあちゃんに何万回と「わがままはあかん」と言われた。「こんなわがまま、大人になっても通用すると思ったらいかんで」ときつく言われた。でも、おっとうは、大人になってもわがままを通用させた。おばあちゃんの意見も正しかったけど、おっとうも正しかった。
「なんで、おっとうは、わがままを通用させられたと思う?」
チビはわからない、という顔をしている。
「ふだん、まわりの人たちに気遣いをする、人のためになることをしておく。自分をわかってもらうために努力をする。だから、まわりの人は、ぼくがわがままを言うときに、しゃあないな、と言うてくれる。しかたないな、わがままやけど、今回はしゃあない、そう思ってもらえることを、ふだんからしているからや。それをせんでわがままを言っても、誰も聞いてくれへんねん。だから、親に対してわがままでもエエ。そやけど、いつもはこんだけやってるねんから、しゃあないな、というものを、ちゃんとふだんからしておけ。しゃあないな、と言わせるわがままになれ。努力しろ」


↑(引用ここまで)
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…信頼関係。
紳助氏の怒り方は、その行為自体を怒るというよりも、「その行為が自分の信用を失わせているということ」をわからせることで、信頼関係の築き方を「教えて」いると思います。
まさに、「教育的配慮」です。

そして、気遣いや日々の努力があるからこそ、急なわがままや、例外を認めてもらえるのだと言います。
…その通りだと思います。


普段からいいかげんに過ごしておいて、いきなり例外を認めてくれ、というのはムリがあります。
それは、「ただのわがまま」です。
誰も聞いちゃくれません。
普段から、イザというときに「あいつが言うなら、しゃあないな」とまわりに思わせるような過ごし方をしていなければ、どんなに小さな「お願い」でも、「ただのわがまま」になってしまうのです。


…たとえば、私は職場での会議によく数分の遅刻をしていく奴でした。
「ほかの仕事が立て込んでるから、しゃあないやんか」と、自分に言い聞かせていました。
「会議には時間通り来るもんだ」と、先輩に言われたこともありました。
それでも、いつも心の中で言い訳をして、直せませんでした。
なので、いつも遅刻していくもんだから、いざ本当に会議のあるときに出張が入っても、「またいつものことやろ」と、誰も私のフォローなんてしてくれないのです。

寂しいけど、当然。
だって、フォローしてもらえるようなことなんて、普段してないんだから。
職場の飲み会にもよく遅刻して行っていました。
理由は、「仕事が忙しいんだから、しゃあないやんか」。
それは他の人だって一緒なのに、です。
私の職場での信用は、最低でした。


…しかし、しばらくして私は自己反省し、会議や飲み会に時間より早く行くようにしたのです。
するとどうでしょう。
ふだんから信用を失わないように行動したり、気遣いをしたり、自分がどういう人間なのかわかってもらうよう努力していると、いざ遅刻したり、例外を認めてもらったりするとき、まわりが自然とフォローしてくれるのです。
いざ仕方ない理由で遅刻をしても、「大変だったみたいだね?」と、逆に私を気遣ってくれるのです。
私が欠席した会議で何があったか、自然と誰かが教えてくれるのです。
資料もとっておいてくれるのです。
会議資料に自分のミスや準備不足があっても、「今回はしゃあないか」と笑って許してくれるのです。
…それもこれも、すべては「ふだんから信用を失わないように」行動していたからだと思うのです。


何かをするとき、「やらない理由」や「できない理由」は探せばたくさんあります。
「いいわけ」も、いくらでもできます。
でも、いつも自分自身に「いいわけ」をしつづけてやらないのと、まわりから認められるように普段から努力をしているのとでは、雲泥の差があると、私は、それを身をもって体験したのです。


…そして、そういった「信用とわがまま」について、ただ怒るのではなく、娘たちにわかるよう丁寧に説明して怒る紳助氏の教育理念に、感動せずにはいられないのです。


ただ自分が気に入らないから、怒る人。

紳助氏のように、信用を落とすような行為・スジの通ってない行為をしてほしくなくて、怒る人。

そりゃ、まず自分ができてることが大前提ではあるけども、そういう教育的な「怒り方」のできる人でありたいものです。



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