田代容疑者の事件を見ていて、また一つ、考えさせられた。
自分を見つめなおすことの大変さだ。
自分を見つめなおす必要性がある、っていう機会は、普通に平和に生活できていれば、あまりないものだと思う。
でも、何かの壁に突き当たったり、人と深刻な対立や、憎しみがうまれてしまったときに、必要性がたかまったりする。
また、自分で見つめなおす機会が幸運にも?訪れたとしても、自分で自分を判断するのは、自分がもつ能力以内でしかない。自分以上の目線で見つめなおすことができなければ、結局は、新しい発見ができないということもある。
だから、自分を見つめなおすためには、誰かの助けが、必ず必要になると思う。
自分を良く知ってくれている人、適切な判断と言葉を持っている人。
カウンセラーのように中立的にそんなことができる人は、もしかしたら、少ない。
何かを発見させてくれるのは、どんな形であっても、自分にストンと落ちて、気づくことが重要だ。
人を頼りすぎることは良くないけれど、直接に相手がいなくても、本やメディアから、相手の考え方を知って影響されたりということもある。
人から気づかされるのは、たいてい、感情論のケンカになっていろいろ言われたり、ふと「アンタってこういうところがあるよね。」と何気ない会話で言われたり。
あるいは自分は無意識にしていた話に、相手が激昂したり、逆に怖いほどの興味をもたれたり。
そんなことが、キッカケになってくれる場合も多い。
ふと、思いもしなかった自分の脆さや、逆に強さを、発見することもある。
ほとんどの人は、私も含めて、自分の理想をもっていて、その基準によって人を評価し、判断を下す。自分の過去から相手に感じたことを伝える。
信頼しあい、相手のことを理解しながら、そういった言葉をかみしめる。
それだけでも、生きていけるけれど、そうじゃない場合もある。
田代容疑者のような、麻薬中毒の状況にありながら、立ち直るために何が必要になるんだろう。
私が心から心配した言葉が、正しいかどうかなんて、判断できない。
だからこそ、ノウハウと実績をもつカウンセリングや、医療に、期待をして門をたたくことが必要になる。
彼にそれが必要だと私が思う理由は、「審判」で、あれほどまでに自分をさらけ出そうとしながら、同時に、どうしても愛されたいという強い気持、人に負担をかけたくない、喜ばせたいという、哀れなほどの自分を認めていない気持が強く見え、2本の足だけでなく、何本もの足に、体重を支えてもらえないまま、強い中毒衝動と戦っていくようなことができるだろうかと、思っていた。
多くの人にも愛され、力強い言葉も得られていたけれど、気にしないフリをしながらも、心を引き裂くような言葉も、受けたことがあるだろう。
そんな保護が出来ない心を抱えたまま、決して愛されないような闇の部分を、見つめることができるだろうかと。
心の闇は、最初のきっかけは、小さなものだったりすることもある。
見ないようにしていると、それが、どんどん広がっていってしまうこともある。
中毒衝動は、それをさらに、広げてしまう。
きっかけから、それが広がっていった理由、状況をすべて、専門的知識なく、見つめなおすことは、ほとんどの人にはできないと思う。
中立的に、かける言葉を注意深く選んで、それをサポートするということは、普通の人にはムリでしょう。
だからこそ、普通の人間関係以外にも、サポートをうける時間というものが、彼に必要だったはずだと思う。
キャリアをなんとか取り戻したいという強い強い夢と同時に、何故自分を捨てているような、人の気持しか考えていないような、お人よしをはるかに超えてしまうほどの、自己犠牲のような仕事を続けて生きたいと考えてしまうのか。
彼の芸は、他のお笑い芸人と比較して、そういう圧倒されるような自己犠牲が、時々見られる。
もっと強い衝動、名誉やお金を求める気持が強ければ、自己犠牲が報われて、自分に鼻高々になって、売れている一般芸人のように、ずうずうしい、そして人間として自然な自信を持てる考え方が身につくだろうに。
家族や友人に、認めてもらい、愛されているということだけで、満足できなかったのは、何故なんだろう。
彼には、どうしても、そういう自己評価や満足をすることが、いつまでも、身につかないように思う。それが何故なんだろうか。
今は、家族と呼べる人は、彼にはいなくなってしまった。
それもまた、彼が自分を支えきれなくなった理由にも、なっていると思う。
私が田代さんに魅かれる理由は、その謎の部分であり、今も謎であり続けています。
心のバランスをとりもどすための、その何かを見つけられるように、これからも応援していきます。