ランチを買いに、パン屋さんへ。
ちょうど、
朝のおそと遊びが終わったのか、
近所の保育園の子どもたち御一行とすれちがった。
一人の子は先生と手を繋いで歩き、
残りの子どもたちはカートの中で
それぞれの在り方で立っていて、
先生に押してもらって
保育園に帰るところだった。
カートの中は、
一人の子が
生まれおちたばかり、
みたいな顔をして泣いていて、
ぼーっと外を眺めている子、
泣いている子のことを不思議そうに見ている子、
「おなじ」は一人もいなくって。
そして、
どの在り方もそのままにして、
先生たちは、
子どもたちの乗ったカートの安全に気を配りながら
ただ、カートを押していた。
文房具屋さんにあった「寅」の起き上がりこぼし。
みんなちがう🐯
一人の泣いている子の頭上では、
カラスもカーカー鳴いていた。
カラスの鳴き声を聞いて、
仲間に何かを知らせていたりするのかな?
と思うことがあっても、
私は
カラスを
鳴き止まそうとはまったく思わないし、
きっと、何かあって
今、そこで鳴くことが必要で
鳴いているんだろうなって
最終的にはそう思う。
どうにかしようとしない。
もちろん、しない。
カートの中で口をめいいっぱい開けて
泣いている子どもをみても、
ねむいのかな?
おなかすいたのかな?
まだ遊びたかったのかな?
と想像はしたけれど、
あの子を泣き止ませたい、
とはまったく思わなかったし、
きっと、何かあって
今、そこで泣くことがあの子にとって
必要なんだろうなって
思った。
どうにかしようとしない。
それも、しない。
きっと、何かあって
今、そこでそれをすることが
必要なんだろうな。
他者の
その在り方を、
どうにかしようとせず
そのままと共存しながら、
目を配っておくべきところは
それを観た自分がどう感じてたのか、
という「内側」。
同時に、
自分の
今の在り方も、
どうにかしようとせずに
そのままを貫いてみて、
それをやってみて
自分はどう感じているのか、
という「内側」を掬いにいく。
起きていることには、
いつも、
自分がそれを
「どう感じているか」
「どう捉えようとしたか」
を
知らせてくれるギフトがある。
福岡城さくらまつりの夜桜。美しかったです。
🌿 ホントは私、「どう捉えたかったんだろう?」という問いは、本音への道標。
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