たのしいね


とか


おいしいね


とか


うれしいね


とか


きれいだね


とか


すてきだね


とか。



自分も、相手も、


おなじような気持ちを


「感じていたなら、いいなぁ・・・」


そして、さらに言えば


「だよね〜」って


気持ちを共感しあえたら、


うれしい。




こころを開いて接することのできる


関係性の相手(子供、パートナー、心友)と


一緒にいる時に、


自分にとって、歓迎する感情


(たのしい、うれしい、おいしい、きれい、素敵)


が湧いた時は特に、


「(今、私たちおなじような感覚)だよね〜?」


と、


相手にも


自分と同じ感覚があることを前提に、


共感を求めることが多かった。


そして、その時はずっと


誰もが、


こころを許した相手と


きもちを


共感しあえることを


優先度を高くして望んでいる、


と思ってきたし、思っていた。



のだが、


パートナーは、ちがった。



どこかのなにかのタイミングで、


「楽しいね〜?」


「おいしいね〜?」


を、そこそこ頻発させていた私に、


ある時、彼から、


「感情を強要されるのは、


あまりいい気分ではないなぁ」


というようなことを、


言われたことがある。


彼にとって、


私が


相手も自分と同じ感情を抱いていたらうれしい、


というような、


「共感」の部分は、


さほど重要ではない、


ということを知った出来事。



「たとえ、その時その感情に


『共感』はできなくても、


『理解』はしたいと思ってるよ。」



パートナーからそう言われた時、


「共感」することの優先度を


高設定にして生きてきた私は、


そうではない人種がいることに


初めて気づいたんじゃないだろうか。



その件をきっかけに、私は改めて思い直す、


みんな同じじゃない。

(本当に、毎回、つい、うっかりするところだ)






自分(相手)がどう感じているのかについては、


当然、自分(相手)が決めること。


感じ方も、感じている時間も、


自分(相手)のペースがある。


だから、


自分の思いや考えに


共感されなくても傷つかないし、


相手の思いや考えに


あえて共感せずとも、


あたたかな場は作っていける。


あらゆる感情を感じる機会も、


タイミングも、


自分(相手)だけのもの。


それを、


ほんのりした


(今、私たちおなじような感覚)だよね〜?」で


奪いたくない。


それ以来、私はそう思うようになった。



それからの私は、


湧いてきた自分の感情を表現する時には、


私は


「おいしいね」


ではなく


「おいしー!」に、


「たのしいね」


でもなく


「たのしいなぁ」に、


すべて自由に発するひとりごとに変えた。



それは、決して寂しいことでもなかったし、


自分の庭で自由に鼻歌をうたう感覚。




相手は今、


自分と同じように


感じていないかもしれないし、


感じているのかもしれない。


どちらなのかは


私にはわからない。


という前提でいることのメリットは、


どうなんだろう?って


気になったタイミングに


「聞いてみたらいい」


という軽さがあること。



喜んだ気持ちの時に、


相手も同じだったらうれしい。


そう感じる私は、変わらずいるまんま。


そう感じる私がいることを、


私が知っていてあげられたら、いいんだ。



この子のかわいさは、言わずもがな、共感😂




🌿 相手に向けたまなざしが、自分に向けているまなざし。

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