先日の太陽生きると痛み伴う?という記事を書きました。

 

丸ブルー「太陽を生きる」と痛みが伴う?

 

太陽とは宮崎真由子先生の講座では「スクリーンに映し出された映画などの映像

私が受けた別の講座では「エアギターをやる」「シャドウボクシングをやる」ようなことという説明がありました。

 

何となく「ボクシングしたいかも知らんぷり」って思って毎日こうやればいいかな?と考えながらシャドーボクシングしていると何となく上手になってきます。

そしてどんどん自分の体型や個性に合わせて「こうやってみようかな、あれがいいかな」とやっていくようなことが太陽のアスペクトで表されるというような話でした。

 

それでわかりにくいかもしれないけど、自分がやってたことを思い出しました。

(いっつも同じ話ですが・・・)

 

 

 

 

私は就職してからもずっと海外に行きたいなって心のなかで思いながら毎日働いていました。

本当は海外に行きたいって気持ちが、さっきの「なんかボクシングやりたいかも」みたいな気持ちだったと思います。

 

でも海外に行って仕事はどうするんだ、とか、ろくな大人になれないんじゃないか、という常識的なところがすごく引っかかってたと思います。

前の記事で書いたように、前例がないとできない、っていう不自由な精神ですね。

 

自由な精神だったら「やってみたいならやってみよう気づき」って直感に従えると思うので。

 

そういわけで、私がやっていたことって毎日自分は海外にいるって思い込んで街を歩くっていうことでした。

めっちゃイタいんですけど、出勤する時も仕事してるときも、自分は海外にいるって本気で思い込んでて、ヘッドフォンは洋楽や英語の番組を流して、電車の中でも洋書を読んでイキりたおしてたんです(昇天

 

それがシャドーボクシング的でもあり、海外にいる自分をスクリーンに映し出して見ているって感じだったのかもなと思います。

 

 

 

 

そんなふうにシャドーボクシングしてる割には「大人になったんだから働かないといけない、現実的に考えなければいけない」と1つの現実やルールに縛られてて、「海外に行っても何とかやっていける自分」っていう別の現実を想像できていませんでした。

でも何となく自分はそうするのかもしれないっていう思いがあって、ずっとスクリーンに映し出しながら、海外にいる自分として生きてたと思います。

 

それが講座でも聞いたように「物事は他のようであったかもしれない妙な感覚」ってやつだと思います。

自分は本当はこれじゃないものを求めてるのに・・・っていうか。

 

でもじゃあ仕事をやめて行くぞって思うと不安しかなくて、その恐怖を味合わないように「このまま働くのがいい」って思い込ませていたと思います。

それが自発的隷従ですね。

 

 

 

 

 

それが変わったのは冥王星がアセンダントに来た時です。

 

丸ブルーアセンダントにトランジット冥王星が乗った時の話

 

ここで、このまま海外に行きたいと思いながら行かない自分を想像して恐怖で鳥肌が全身にたって、仕事も転職活動も辞めることを決意したのでした。

 

なので結局自分で決めたっていう自主性というよりは、結局星のとおりに動かされたっていう感じはします。

まあ占星術を知らなかったら、自分で決めたってことになるんでしょうけど。

 

そしてそこからはや9年ほど経ちましたが、自分はあの時できないと思っていた現実を生きてます。

なのでやっぱり1つのルールじゃないんだろうな、と思います。

 

正直これが私にとって「太陽を生きる」ってことなのかは不明です。

私は未だに何が自分の太陽なんだかわかりませんので・・・悲しい

 

でもこういう一連の流れは、太陽を生きるてことの例としては考えられるかもしれません・・がどうでしょう・・・フラッグ