8月21日後半
プルート・ケイヴをあとにして再びマウント・シャスタの町に入る。時間的にはもう夕方近いが、サマータイムなのでまだ明るい。
まずビジター・センターに立ち寄ってみた。観光案内の小冊子にはその歴史やシャスタをめぐる伝説が紹介されている。その伝説の中に、ニューエイジャーたちの言う伝説のことものっていた。レムリア人の生き残りが地底都市を作っているという話である。以前からこの話をごく一般の人たちはどう思っているか気になっていた。というのも、日本にいるスピリチュアルな人たちはシャスタを特別視する中で、この地底都市のことにも言及することがあるからである。
あらかじめ僕のスタンスを話しておく。シャスタという土地に何か特別なものがある。そう感じる人がいる。そこまではいい。僕自身、シャスタ山に上り、そこが清々しく天国的な場所だということは分かった。しかし、地底都市があるという話は、さすがににわかには信じがたい。もしそのようなものが存在していたら、今日に至るまで一般人に隠されたままであるなんてことが可能だろうか。それともこの話は、霊的な話として解釈されるべきだろうか。つまり、普通の人には見えないし、感じられないけれど、シャスタにはレムリア人の霊が集合しており、それが特別な能力を持っている人には感じられるとか。
スピリチュアルな日本人と話していて、さらに不思議なのは、「なぜそんなに簡単に信じられるのか」だ。
しかし、日本人に関して言えば、多くの人と接触しているので、だいたいの答えはわかっている。それは「信仰」のように信じているわけではない、ということである。
「あるかもしれない」
「あってもいい」
「あるということにしておきましょう」
という感じではないかと思う。目くじら立てて「そんなものあるはずがない」というのは野暮な感じがする。しかし、そういうことについて本を書くようなコアな人は端的に「ある」というだろう。
現地のアメリカ人はどうなのだろう。
今いるのは観光案内所なので、中にいる人はまあ「普通の人」と見てよいだろう。
パンフレットを見せながら、案内の人(女性)に聞いてみた。
「こういう伝説は、いつごろから信じられているんですか。」
「そうですね、百年も前からかしらね。」
この答えを聞いて、しかしニューエイジャーが集まるようになってからのほうがより本格的に信じられるようになったのではないかと感じ、次のように質問する。
「ニューエイジャーたちが集まるようになったのはいつごろなんでしょうか。」
「ニューエイジャーだけじゃないわよ。ここは色々な人が集まるの。ニューエイジャーだけでなく、ネイティヴ・アメリカンもね」
ちょっとはぐらかされた感じだ。
「あなたは伝説を信じますか」
「ええ、信じるわ。でも、地底都市はちょっとね。」
レムリア人の子孫がこの地に渡ってきたということはありうるかもしれない。しかし、それが地底都市を築いているというのは、信じがたい。そういう雰囲気だと思った。すると、やはり現地の人も地底都市までは信じていない、ということになるだろうか。そう思って次のように質問する。
「信じている人は少ないですか。」
「いや、いっぱいいますよ。」
何となく、彼女の様子から、「この人、一体何が聞きたいんだろうか」という雰囲気がうかがえる。まあ、普通の観光客がいきなりこういう質問を連発することはないだろう。上の会話も何となくかみ合っていないことが分かるだろう。英語力の問題もあるかもしれない。「いつごろから~を信じる人が多くなってきたのか」ということを英語で聞くのは意外に難しい。About when did people in Mt. Shasta come to believe in the underground city? となるだろうか。頭では分かるのだが、こういう文章を一般会話では聞いたことがないので、ニュアンスも含めて伝わっているのかどうか怪しい。日本語の「なる」という言葉は厄介である。「From when…」などと言い始めようものなら、大変である。「ある時点から一斉にスタート」とみたいな感じになる。第一「そんなこと一概に言えるわけないだろう、だいたい私だって昔からここに住んでいるわけじゃないし」という反応も予想できる。ついたどたどしくなってしまう。
昨日の本屋の店員との会話も踏まえて考えるに、「信じるか」「信じられているか」と聞くことの野暮さがだんだん分かってきた。皆当惑する。
「他人の信念を否定したくない。信じる人は信じるのだから。それでいいじゃないか。なぜあなたはそんなことを聞くの、それをめぐって議論でもしたいの。議論したってしょうがないじゃない。」
こんなところではないだろうか。日本人だったら、もっと簡単に「そんなのあるはずない」と答える人がいるだろうと期待できる。逆に「あると思う」という人もまた気軽なのである。かといってどこまで真剣なのか分からない。
アメリカでは何となく「ある」「ない」とか「信じる」「信じない」ということを言うことに対するハードルのようなものを感じる。イギリスはもっと日本に近いような気がする。そして、出会った人に偏りがあることを勘案しても、もっと気軽にこういう会話ができていたと思う。ここでは、あるなしを言うことが自動的に他の信念を否定することになるのではないかという配慮のようなものを感じる。日本以上の相対主義である。いや、正確には多元主義と言ったほうがよいだろう。最終的には堅固な信念を持っているということが前提だが、しかしそれを簡単には表明しないという態度である。論争やトラブルを避けるという態度である。よく、ガイドブックなどでも宗教に関する話題はタブーとある。そういうこととも関係するのではないだろうか。
(書きかけです)