5月8日9日10日インプリシット・レリジョン | Staretsのブログ

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5月8日9日10日インプリシット・レリジョン

また、まとめ日記になってしまう。それくらい忙しいのである。

この期間は研究会というか学会というか、おそらくその中間的な位置にあるような、ある会合に出席してきた。学会なら会員制度があるが、それはない。しかし、研究会というのには規模がけっこうでかい。60人くらいが参加したであろうか。そして、発表は20人くらいであろうか。それを2泊3日で片づけるのでけっこう忙しい。会議場とホテルが一緒になったような会場で、結局、一回も会場から外へ出なかった。

当然のことながら、みな英語である。学会や研究会というものは、限られた時間で言いたいことを詰め込もうとするので、みんなものすごく早口になる。しかも、内容も集中力を要するものである。それが英語でドバッとやって来る。これがこの旅、最後の修行かと思う。それでも、主催者の配慮で印刷物が配られたので、だいぶ助かった。

これがアメリカ宗教学会あたりになると、まったく印刷物が配られない。パクられ防止とコピー代節約のようである。

この会議の名前であるインプリシット・レリジョンというのは訳しにくい言葉だ。潜在的宗教というか、見えない宗教というか。いずれにしても、いわゆる「宗教」としては括りにくいが、「宗教」っぽいものを指す。主催者で同名の本を書いているエドワード・ベイリーによれば、何かに対するコミットメントと統合と広い世界に影響を及ぼすような強い関心とによって定義されるものだという。

分かりにくいが、要するに、「宗教」ではないが、宗教的機能を持つものと言ってよいだろう。

しかし、テーマ的にはけっこう普通の宗教学会と変わらなかった。まず主催者が、今は引退したらしいがキリスト教の聖職者だったそうである。もっと、ニューエイジ研究者がいるかと思ったが、そうでもなかった。スピリチュアリティやウェル・ビーイングを扱う人もいたが、それを客観的に、あるいは批判的に研究するのではなく、推進する立場の人が多いように感じた。

ちなみに僕は、現代日本の輪廻転生を論じた。輪廻は伝統的死生観と思われがちだが、実は先祖祭祀と矛盾し、とくに文化横断的な輪廻を信じた場合、先祖とのつながりは薄くなり、「家」からの離脱として解釈するべきであると論じた。また、最近の前世療法の体験談を分析した。輪廻を語る現代の思想家は、現世の問題は自分が計画してきたものだという自己責任の言説を展開するが、実際のクライエントは問題を前世のせいにすると同時に、今の自己を肯定する免責の言説に終始することを指摘した。

評判は良かった。ある人から「ポライト」(丁寧)な発表だ、と言われた。事例中心であまり詰め込まなかったからだろう。これが日本語だったら、詰め込んでしまっていただろう。

ところで、僕は、宗教と心理学の関係を研究してきたので、心理学については多少分かる。そして、宗教心理学についても分かる。

ある心理学者が、キリスト教徒と超常現象を信じる人とでは、後者のほうが自殺を理想化しがちだという発表をした。日本でも、自殺した若者が、「来世で見返してやる」などと遺書を書くと、輪廻を語るテレビ番組は悪影響を及ぼすという議論が沸き起こる。当然、輪廻を肯定する現代のスピリチュアルな思想の多くが自殺を否定していることが思い浮かぶし、それじゃ、死後生を信じる人はみんな自殺しやすいのかとか、日本は伝統的に自殺を文化のなかに位置づけてきた面もあるのではないかとか、色々疑問が浮かぶ。

ところで発表者は、キリスト教は自殺を否定するから、超常現象を信じる人より、自殺を肯定しないのだと言いたそうである。しかし、発表のデータをよく見ると、キリスト教への態度を計る尺度の得点と、超常現象を信じる度合いとが、正の相関を示している!

つまり、両者は重なる傾向があるということである。

僕はそれを指摘し、キリスト教徒であることは超常現象を信じることを、含むのではないかと質問した。また、ニューエイジでも自殺を禁止する見解が多いと思うが、「超常現象を信じる」というだけでは、そういう教えに共感するかどうかを拾えない、ということも指摘した。

その心理学者のグループは、30年にわたって、ユングの性格類型を用いて、教会出席者と一般人のパーソナリティの違いを大規模に調査していた。

なぜ今ごろユング?
せめて相互に独立した因子であることが経験的に確認されているビッグファイヴとかを使わないの?
なぜ教会出席者と非教会出席者とで比較しない?
オルポート以後の研究を参照すれば、教会出席者を単純にひと括りにすることはできないのでは?(社会的理由から出席している人と内面的に同一化したうえで出席している人と、二つのグループがあることが分かっている)

などなど、めっちゃツッコミどころが満載だが、要するに、キリスト教を擁護したい人たちなのだと分かって、手を上げるのをやめた。

彼らは、教会に出席せずに超常現象を信じる人に駄目出しをしたがっている。そういう風に見えてしまった。

それにしても、そのグループはものすごい量の論文を量産している。100の論文があると聞いてびっくりした。そのことについては敬意を表する。

以前、バースでも会ったことがあるTに

「この会議はどう? 楽しんでいるかい?」と聞かれて、とっさに
「うん、もちろん!」と答えてしまったが、留保を付けなければならないだろう。

Tはすごく切れる人だから、一瞬僕の「うん、もちろん?」という言葉に、曖昧な表情を浮かべていたことを思い出す。

きちんと答えるとしたら、疑問や批判も浮かぶが、こちらの研究者はこういう感じなんだということが分かって、面白かった。こんな感じだろうか。

読者は、僕がとくにこの会議をけなしていると誤解しないでほしい。とても和やかで明るい雰囲気に包まれて、また刺激的な意見交換が出来たと思っている。ただ、僕は、たいていの学会や研究会や研究者に対して、普段からこんな感じでけっこう冷たいのである(笑)。それは自分が研究者なのだから当たり前である。学問は批判を原動力にしているわけだし。しかし、その研究活動に対しては敬意を惜しまない。だいたい、自分がよく知らないことを専門的に研究している人に対しては、謙虚に教えをこうようでなければならない。うーん、大人になったなあ。

それにしても、「潜在的な宗教」というくらいだから、もっとキリスト教から離れた感じを予想していたが、どっぷりつかっている感じだった。これがアメリカだともっと隠されたキリスト教色がすごいと思う。アメリカの宗教学会に一瞬エントリーしようか迷って、今年の論文募集欄を見たが、ニューエイジやスピリチュアリティが落ち着く名前の部会がなくて、なるほどマイノリティなんだと思った。

同時に、自分の居場所について考える。

あまり、スピリチュアリティ研究に深入りさせたくなさそうな某先生の意図がよく分かる。

自分は、スピリチュアリティが、何か哲学や思想とつながるものを持っていると考えている。実際には、キリスト教神学の厚みや、西洋哲学の理論構築と比較して、大衆的なスピリチュアル思想が、それらと太刀打ちできるようなクオリティを持っているとはとても思えない。

スピリチュアルな読者のなかには、僕のこんな意見を聞いてがっかりする人がいるかもしれない。

しかし、イエスの教えそのものはとても平易に理解できるところがある。だからこそ多くの人に訴えたのである。でも、それがギリシア哲学などに刺激を受けて知的に洗練させられると、キリスト教の高度な神学ができ上がる。

同じように、誰にでもよく分かる江原さんや飯田さんの教えは、哲学・思想の面からはいくらでも批判できるが、逆に哲学・思想と関連付けて補強することもできる。

それは、スピリチュアルを持ち上げることを意味するのではない。むしろ、批判を加えつつその意義を評価して、別の文脈の哲学や思想と関連付けて、現代人のより広い層に訴えるような思想に練り上げるということでもある。

結局、この旅は何だったんだろう。総括については、日を改めて考えてみる。

しかし、現時点で分かるのは、次のことである。

「旅とは、遠い見知らぬものへの期待と失望を経て、自分を発見することである。」