塩の道の起点 浜背負い祭りと天竜川水運 諏訪の神がもたらした天竜の賜物 | 縄文家族|天竜楽市

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天竜川流域に岩宿、縄文の昔から連綿と続く山暮らし。

大祖先から受け継いだ五万年持続する森と共生するサスティナブルライフを未来の子供たちへ伝えましょう‼️

 

11月19日(日)に二年に一度のイベント「浜背負い祭り」が佐久間町大井(西渡)で行なわれている。

 

一般に「塩の道」は遠州相良(牧之原市、旧相良町)から長野塩尻までの陸路を指すことが多いが、相良の塩は陸送が中心で信州へ運ばれることは少なく、実際に青崩峠を越えて信州へ運ばれていったのは遠州川崎湊(牧之原市、旧榛原町)から廻船によって出荷された塩であったと云う。

塩は川崎湊から掛塚湊へ廻船で運ばれ、掛塚からは川船で天竜川を遡っていった。

本格的な天竜川の水運は江戸時代の初期に角倉了以が開き、角倉船と呼ばれる帆掛け船を用いて遠州特有の山に向って吹く空っ風に乗って信州方面へ上っていった。

 

角倉船の積載量は下り米十俵、上りは五表程度であったと云われるが、秋葉の急峻な山道を人足が担いだり、荷車や牛馬を使って輸送するより効率が良かったのだろう。

 

信州方面へ輸送される物資は鹿島の分一番所で江戸幕府に一割課税されており、陸路で迂回しようとすれば抜け荷扱いにされたため、信州への物資は大半が鹿島を通過して船で運ばれていた。

この分一番所は毎年民間が請け負っており、ある年は船明の百姓が三千両で落札したと記録にある。

平野が少なく稲作に適さなかった天竜区では江戸時代を通じて年貢米を納めるより税金は金納が主流であったと云い、中には水運などで大きな利益を得ていた百姓もいたようだ。

 

瀬尻と戸口の間にある鳴瀬沢辺りは天竜川の難所で、水窪川との合流点から上流は川幅も狭く急流となり角倉船の運航は困難なため、船戸の湊(浜)から西渡の坂、八丁坂を浜背負(はましょい)と呼ばれる人達が水運で運ばれてきた塩や米などを背負って登って行ったという。

 

ここ西渡が遠州塩の道の起点である。

 

 


女性でも百キロ近い荷を担いで急坂を上がったというから、現代人では到底考えられないパワーが昔の人にはあったのだろう。

玄米食が、当時の日本人の強靱な体力の源になったのではないか、という説もある。

 

 

西渡の坂を舟戸の浜へ下っていく舟戸ふ組若連の屋台

 

西渡地区が大いに栄えたのは享保十六(1731)年に開坑した久根鉱山を明治三十二(1899)年に古河鉱業が買収し本格的な採掘を始めてからで、良質の銅、黄鉄鉱を産出する久根鉱山は明治後期から大正期にかけて硫化鉄鉱山として日本一の地位を占めた。

 

産出した黄鉄鉱は帆掛け船で鹿島へ運ばれ、鹿島からは遠州鉄道の貨物で輸送され馬込から東海道線へ引き込まれた。

 

遠州電氣鐵道に対抗するように天竜川東岸に磐田中泉から二俣町まで昭和五年開業した光明電氣鐵道は久根鉱山の鉱石輸送を目的とし、船明までの延伸を計画したものの、古河鉱業の支援が得られず経営は悪化、僅か六年であえなく廃線となる。

計画では収入の六割を鉱石輸送に見込んでいたと云うから久根鉱山の産出量が如何に大きかったかがわかる。

船明延伸が実現して久根鉱山鉱石輸送を光明電鉄が一手に引き受けていたら磐田の経済は潤い浜松経済界には痛手となったかもしれない。

光明電鉄の船明延伸時には二俣車道町に秋葉山駅が開業予定であった。

車道には遠州秋葉自動車株式会社があり、秋葉山方面へ路線が延びていた(当時は車道に秋葉神社を祀る秋葉山という山も存在した)。

 

昭和二年には二俣繭市場が全国一の取引高を記録、明治以降、二俣には信州の物産が集積され、遠州の道路網、鉄道の敷設も二俣を中心に各地へ伸びていった。

江戸時代から天竜川水運で搬出されていた北遠南信地方から産する天竜の材木も大正中期に需要が急拡大し価格が高騰、この地域の経済力を大きく押し上げている。

天竜材は遠州電鉄、光明電鉄で運搬されると共に、東海道線の天竜川駅から大量に積み出された。いずれにしても二俣以北の輸送は天竜川水運に頼る部分が大きく、大正中期のバブルで鉄道輸送価格が高騰すると掛塚湊からの材木積出の方が低コストとなり(鉄道運輸の開始で一時跡絶えていたが)昭和初期には海運も復活するなど、水運の恩恵は昭和中期まで続いた。

戦後の復興需要、朝鮮特需の際にも天竜川水運が威力を発揮し、昭和三十年に現天竜区の人口は十万人を突破、二俣は遠州経済の中心地となっていた。

 

最終的に着工はしたものの未成線に終わった国鉄佐久間線も、当初は昭和十二年着工、十六年開業が予定されており、ダム建設以前に代替する輸送手段が完成しているはずであったが、日中戦争の開始により延期となっている。佐久間線が開通していれば佐久間ダム、秋葉ダムの完成による天竜川水運の終焉以降も北遠経済の急激な落ち込みも緩和され南信地方との結び付きも維持されていたかもしれない。

一方で国鉄二俣線は太平洋戦争時の代替輸送を目論み急ピッチで工事が進められ開業に至っている。

 

上:天竜川を飛行艇が行き交っていた頃の西渡 下:現在の西渡

 

上述のように天竜川水運の下り荷は材木、鉱石輸送を中心にダム建設が本格化する昭和二十九年頃まで続いたが、河川交通全体のピークは明治末期頃で、大正時代に陸上輸送が発達すると上り荷は次第に陸上輸送に転換され昭和七年以降、上り荷は陸上輸送に完全に切り替えられた。

 

然し、海運の復活など陸送に対する優位性も残っており、大正後期には通船の優位を回復しようとして「飛行艇」が導入される。

 

飛行艇は船体後部に飛行機のエンジンを取りつけ、直径二メートルのプロペラが一分間に八百開店する推進力で動く最新鋭の船で大正十一年から西渡~鹿島間で就航を開始した。

寄艇地は西渡、大輪、瀬尻生島、青谷、西川、戸倉、雲名、横山、相津、船明、塩見渡、二俣川口、鹿島であった。

 

然し乍ら、飛行艇は大きな事故も発生するなどして陸上交通に対する優位を回復できず、昭和六年に廃止(西渡~中部間で一時復活したが太平洋戦争の開始により昭和十五年に廃止)された。

それでも橋のない区間では渡船が存続しており、こうした区間ではバスも筏船に載せて天竜川を渡っていた。

 

明治前期の上り荷の積荷は米麦、大豆、塩、酒、醤油、石油、砂糖、畳表など主に食料品、生活用品で、これらの物産が西渡に陸揚げされ浜背負いによって信州方面に運ばれていった。

 

上りの帆掛け船は風頼みであり、無風の時には川岸の人足が綱で引っ張っていくこともあったという。

また、明治以降西渡以北の急流や阿多古川、気田川、水窪川といった水量の少ない支流域でも差波船と呼ばれる小型の船によって舟道が開かれていった。

多くの激務と命懸けの操船が天竜の経済を支えてきた。

 

江戸時代から明治、大正、昭和中期まで、現天竜区の経済を支えてきたのは天竜川水運であった。

水運の終焉と共に地域経済が斜陽へ向っていったのは周知の通りである。

 

江戸時代以降、天竜川流域には各地に諏訪神社が祀られるようになるが、元々、信州であった西渡以北を除けば遠州で諏訪神タケミナカタを祀る神社は少なかったように思われる。

タケミナカタ(伊勢津比古、出雲の残存勢力)はあくまで遠州を追われ天竜川を遡って信州へ逃げ込んだ神であり、軍神として全国に広まる以前は信州だけで祀られていたのではないだろうか。

遠州の天竜川流域の諏訪神社は天竜川の起点である諏訪に直結しており交流もあったもののミシャグジとタケミナカタは無関係に祀られており、御柱祭のような諏訪信仰の古い祭事も残っていない。

むしろ、ミシャグジや出雲族の連綿たる古来の伝統は(遠州では)秋葉、光明信仰に引き継がれていったようだ。

 

天竜川水運が盛んになってから新たに天竜川の水神として諏訪神が復活し祀られていったために古代から連綿と続く諏訪の神事は残されていないのではないか。

それでも、諏訪大明神の恩恵はこの地域に豊かな経済的繁栄をもたらしてくれたのである。