遠州横須賀三熊野神社大祭2015 月食と夜桜と祢里 遠州地域力向上の先駆 | 縄文家族|天竜楽市

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遠州横須賀三熊野神社大祭 速報!!



遠州横須賀三熊野神社は大宝元年(701)に熊野三山より勧請されたという由緒正しき古社である。


四月に行われる大祭には、十三台の祢里(禰里=ねり)と呼ばれる一本柱万度型の二輪屋台が曳き廻される。
このように露天屋台に一本柱を立て、笠を張り万度(万燈)を載せ、その上に出し飾りを載せるという形式は江戸時代中後期の江戸型山車の典型であった。
神田祭や山王祭の山車は牛に曳かせるため二輪であったが、明治以降は三輪または四輪に改造して人が曳くようにしたものが多い。


万燈は元々手持ちであり、やがて神輿のように担ぐようになって、その後享保の頃には、屋台に載せて山車へと発展した。


秩父地方の笠鉾の原型はやはり一本柱万度型で、二輪から四輪に改造されている。

二輪のまま曳き廻すことで、遠州東部独特の二輪屋台曳き廻しのリズムが生まれる。

千代田区主催の江戸天下祭や、実際に天下祭であった神田祭にも数年に一度、横須賀の禰里が招聘される。
山王祭には四十五番の山車があったと云われ、神田祭にも相当数の山車や屋台が曳かれていたが、明治中期に電線の敷設や路面電車の普及により山車、屋台が東京では曳き廻し困難になり、神田祭も山車、屋台を曳く祭りから神輿を担ぐ祭りへと変貌していった。
現在でも、東京には山車の復活を望む声は多く、横須賀のように江戸時代とほぼ変わらぬ禰里に対するリスペクトもあるようだ。

今年も神田祭にか組とに組の禰里の参加が予定されている。



日本の山・鉾・屋台行事がユネスコ文化遺産登録を目指すなど、日本の伝統的な祭禮行事の花形である「屋台」への注目は全国的に高まっており、桜の季節に曳かれる屋台を撮影しようと日本全国から大勢のカメラマンが詰め掛け、非常に多数の見物客も遠方から集まってくる。

千五百台はあるとも云われる遠州の屋臺地域力向上の切り札として、遠州横須賀の禰里人気にあやかりたいところである。


禰里は舞台でもあり、般若やおかめ、ひょっとこの手古舞が舞われる。


歴史と伝統が、小さな子供達までしっかりと伝えられている。遠い御先祖様から伝えられてきたことを、また次世代へ、未来へと伝えていく。それが日本の祭り。


禰里の高さは約六メートル


夜の帳が下りる。


夜桜と祭り・・・ただでさえ贅沢な組み合わせだが・・・


この日は皆既月食でもあった。
夜からかなり雲が出て来たが、月食の始まる五分ほど前にお月様が雲の切れ間から顔を覗かせ夜桜と禰里の頭上にポッカリと浮かんだ。


フォトジェニックな夜の大祭


全国から集まった大勢のカメラマンに対し、非常にサービス精神旺盛な横須賀の祭り人たち。


祭りの夜は、まだこれから・・・

何故、全国から遠州横須賀へ大勢の見物客が訪れるのか?

皆、このお祭りが好きなのだ。

横須賀の皆さん、今年も本当に素晴らしいお祭りを見せてくれて、ありがとうございました。

この横須賀の祭りも、日本の多くの祭禮行事がそうであったように、一時は衰退や伝統文化の乱れもあったようだが、街おこしに成功した多くの街がそうしたように、昔ながらに見物客を集め、人様にお見せする、というおもてなしの精神(そもそも屋台を曳くような都市部の大きなお祭りというのは人を集め、産業振興をはかる、というところが原点である)を甦らせたことによって、祭りも、人々も、街も、活性化してきた。
もちろんそれでも、鉄道もなく市の中心から離れた街が存続していくのは並大抵ではないが、御先祖様から受継いだ大切なお祭りを守り未来へ伝えていくのだ、という熱い思いは、必ず地域力の向上に結びつき、そこに暮らす人々の心の拠り所となる。

もはや、日本の「地方」というのは、何もしなければ滅びていく。
然し、それぞれの土地が、それぞれの地域力を上げていくことによって、日本全体の国力の底上げになるのだ。そしてそれは、昭和の半ば頃までは、日本のどこの街でも、その地域を守ろうと必死でやってきたことなのだ。戦後日本の経済成長は、それぞれの地域力の結集であった、ということを忘れてはいけないと思う。

横須賀だけではなく、遠州全体が、自分たちの祭りを、屋台を守っていく。この事こそが、街を存続させ、遠州全体の地域力を押し上げる原動力になるのではないか。
私は、そう思っている。