磐田郡二俣町時代、日本一天下の名物『鹿島の花火』と銘打たれた、この花火大会は二俣町鹿島の天竜川河川敷で行われ磐田原と三方原を分かつ遠州平野(磐田の海)の起点、二俣の南岳「鳥羽山」に木魂する大音響、真夜中十二時から二尺玉を連発で打ち上げる荘厳な神事で「日本三大花火」に数えられた。
鹿島の天竜川河川敷。動画中に聞こえるのは天竜浜名湖鉄道の警笛。
元は百四十年以上続く二俣郷社「椎ヶ脇神社祭典」に伴う奉納煙火であり、舟に神輿を載せ舟屋台と共に天龍川を渡御する神事と共に天地を揺るがす大音響の奉納花火が打ち上げられた。
例祭日は八月二十日で、大正頃から二俣諏訪神社祭典が二十一、二十二、二十三日に執り行われ鹿島の花火も『二俣まつり』と一環して行われ、諏訪神社祭典の勇壮豪快な大屋台曳き廻し、華やかな花屋台や手踊り、三味線流しと合わせ日本全国から大勢の見物客を集めていた。
日本一はいつしか『東海一の大花輪』となり、やがて「遠州一」の座も遠州ふくろいの花火に奪われて「天竜夏の風物詩」になってしまったが、今もその大音響に魅せられて多くの見物客が遠州鉄道鉄道線(かつては「二俣電車」といった)に乗って夏の鹿島を訪れる。
鹿島の民家が障子と雨戸から窓ガラスに変った頃、二尺玉を打ち上げる大音響でガラスが割れてしまったという。以来、二尺玉の打ち上げは休止された。現代のアルミサッシとガラスならば花火の音で割れるということはまずないだろうが。
椎ヶ脇神社神輿渡御は北鹿島の氏子により昭和53年頃まで鹿島橋の歩道橋を「聖天」を奏でながら粛々と行われていたが、西鹿島が手作り屋台を造ると鹿島八幡宮との合同祭となり神輿渡御も西鹿島煙火連に委ねられた。
以降、鹿島の花火と神事「椎ヶ脇神社神輿渡御」は完全に切り離され、鹿島の花火は観光イベントとして概ね八月第一土曜、鹿島八幡宮椎ヶ脇神社祭典は八月第二土日(本年は八月九、十日)に行われている。昭和43年以降二俣諏訪神社祭典は概ね八月第三金土日(本年は八月二十二、二十三、二十四日、昭和51年以降十五日が金曜日の場合は翌週)に行われるようになり、鹿島の花火が二俣諏訪神社祭典前日に行われたのは雨天順々延となった昭和50年頃が最後であったと思う。

西鹿島の祭りは現在、平成元年に根堅大門より購入した安政三年(1856)愛知県三谷村仲屋敷(現・蒲郡市)建造の浜松市内でも五指に入る歴史のある屋台を曳行し、椎ヶ脇神社の神輿は鹿島八幡宮、鹿島地内を巡行し北鹿島の椎ヶ脇神社御旅所に至る渡御を行う。
かつて鹿島の若連は西と北の煙火連に分かれ、それぞれ花火の打ち上げを競った。これも昭和後期には全面的に花火職人による打ち上げとなっている。
明治三十四年、鹿島区民は山車屋台を新調し、この年南北分裂開催となった二俣諏訪神社祭典に屋台を曳いて乱入、車道まで進行し北五町が大明神に進行するのを阻んでいる。
この時の屋台、また天龍川に浮かべられたという舟屋台のその後については不詳となっている。
椎ヶ脇には竜宮伝説があり、鹿島から南の遠州平野は昔「磐田の海」と呼ばれ、二俣の烏帽子山や崇山(元光明)にも二俣以南が海であった伝説があり、水窪の山住神社では祭禮の御潮取りに二俣辺りまで水を汲みに来ていたという。根堅(根堅州国)や於呂(おろち)の地名や龍宮、赤蛇、有玉伝説など、この鹿島が海と陸の交わるところであったという認識は遠州の古い記憶にあるようだ。
神聖な場所で打ち上げる花火は、やはり神事として行うのが望ましい。この神事を止めてからの二俣の衰退は著しいものがある。






























