「坂の上の雲」 正岡子規の気概と俳句の新境地 四柱推命で占う | 福岡占いの館「宝琉館」 ホウリュウの開運鑑定ダイアリー

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福岡占いの館「宝琉館」の深川宝琉館長が占い(運命学)について綴る開運ダイアリーです。運命学も各占術の書籍のみに盲従せず、実占を通して活きた開運学に醸成することが肝要。おもむくまま雑感を記します。

NHK「坂の上の雲」で国民的な人気と関心を集める秋山兄弟と正岡子規。愛媛県松山市内にある秋山兄弟の生家と正岡子規の子規堂など縁の地を訪れました。音譜


日を新たに命を立つ ホウリュウの開運鑑定ダイアリー 正岡子規は闘病の中で俳句の新境地をきわめた人です。



松尾芭蕉の句の詩情豊かな部分を評価しつつも不足分を批判し、超克しようとした態度が作品ににじみ出ています。



日を新たに命を立つ ホウリュウの開運鑑定ダイアリー 写生・写実による現実密着型の生活を詠むことを最重視したことが、俳句の新たな詩情を広げたパイオニアとなったといえるでしょう。



日を新たに命を立つ ホウリュウの開運鑑定ダイアリー


12月5日(日)にはNHKで「坂の上の雲」第二部が放送開始予定で、すでに松山では大きく宣伝しています。


司馬遼太郎は「坂の上の雲」で子規のことを次のように綴っています。クラッカー




日を新たに命を立つ ホウリュウの開運鑑定ダイアリー  ふつうのひとの病床生活とはちがい、子規は死が予定されている病人でありながら、その身辺は事が多かった。俳句会や「ホトトギス」編集会議、それに送別会といったたぐいのにぎやかなことまで、この病室でおこなわれるのがふつうだった。
「子規はなんでも大将にならねばすまぬ男であった」という漱石のことばどおり、病人になっても子規は仲間の大将であろうとした」(「坂の上の雲」第二巻「子規庵」)




日を新たに命を立つ ホウリュウの開運鑑定ダイアリー  子規堂を訪れて、彼の書斎の再現部分を見ると、俳句の新たな写実主義を展開した子規は「こんな小さな書斎でよくぞ、次々と句を産み落とした」と感心させられる部分があります。それは、司馬遼太郎が書いているように闘病しながらも精力的に人と会い、会議を重ねた結果のように思えます。ニコニコ


子規の俳句で有名な句は次のようなものがあります。


 春や昔 十五万石の 城下哉


 柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺


 松山や 秋より高き 天主閣



日を新たに命を立つ ホウリュウの開運鑑定ダイアリー  山吹も 菜の花も咲く 小庭哉


 をとゝひの へちまの水も 取らざりき


 柿くふも 今年ばかりと 思ひけり





子規の短歌も有名です。





日を新たに命を立つ ホウリュウの開運鑑定ダイアリー  いちはつの 花咲きいでて 我目には 今年ばかりの 春行かんとす


 松の葉の 葉毎に結ぶ 白露の 置きてはこぼれ こぼれては置く


 足たたば 北インヂヤの ヒマラヤの エヴェレストなる 雪くはましを


 足たたば 黄河の水を から渉り 崋山の蓮の 花剪らましを




日を新たに命を立つ ホウリュウの開運鑑定ダイアリー 正岡子規の正式な名は常規(つねのり)。明治13年(1880年)、旧制愛媛一中(現・松山東高)に入学。英語は大の苦手でしたが、漢文、日本史は得意で、当時の成績表が展示されていましたが、漢文、日本史は満点でした。子規の潜在的な個性のようなものが見て取れます。グッド!


司馬遼太郎は「坂の上の雲」で正岡子規について次のようなことを書いています。




 時に町方の子と集団でけんかをするときがある。そういうときは子規だけは大いそぎで帰ってきて家の中で息をひそめていた。
日を新たに命を立つ ホウリュウの開運鑑定ダイアリー  「のぼ(子規の正名・升の愛称)はなんとしたことじゃろ」
と、母親がぼう然としたことがある。ついでながら子規の母のお八重は、ひとり息子の子規が死ぬまで升(のぼる)といわず「のぼ」とよんでいた。(「坂の上の雲」第一巻【真之】)


 (正岡の家は御馬廻役じゃからな)
 御馬廻役は戦場にあっては殿様の親衛隊隊士であり、身分は低くない。だから屋敷もひろい、と真之は門を入りながらわが家とくらべてそうおもった。門を入って十数歩ゆくと、正面に玄関がある。(「坂の上の雲」第一巻【真之】)


明治16年(1883年)、愛媛一中を中退して上京し、受験勉強のために共立学校(現・開成高)に入学。翌年、旧藩主家の給費生となり、東大予備門(のち一高、現・東大教養学部)に入学して松山藩が出資していた常盤会寄宿舎に入った。明治23年(1890年)、帝国大学哲学科に進学した後に文学に興味を持ち、翌年には国文科に転科。この頃から「子規」と号して句作を開始しました。



日を新たに命を立つ ホウリュウの開運鑑定ダイアリー 愛媛一中、共立学校で同級だった秋山真之とは松山時代からの友人。また共通の友人に勝田主計がいて、東大予備門では夏目漱石、南方熊楠、山田美妙らと同窓でした。


大学中退後、叔父加藤拓川の紹介で明治25年(1892年)に新聞『日本』の記者となり、家族を呼び寄せて文芸活動の拠点とし、日清戦争後、遼東半島に従軍記者として従軍。帰国時に吐血し、闘病生活が始まりました。


日を新たに命を立つ ホウリュウの開運鑑定ダイアリー その後、子規は俳句・短歌・新体詩・小説・評論・随筆など多方面にわたって創作活動を行い、死ぬまでの7年間、結核を患いながらも、明治時代を代表する文学者の一人となっていきました。





日を新たに命を立つ ホウリュウの開運鑑定ダイアリー 闘病生活をしていく上で、支えとなったのは妹・律の存在が大きいといえるでしょう。NHK「坂の上の雲」では、律の役に菅野美穂が好演しています。



司馬遼太郎は「坂の上の雲」で律のことをこう書いています。


 お律は、自分はもう他家の嫁のくせに、
 「私が看護するけん」
 と言いきった。(「坂の上の雲」第一巻【ほととぎす】)





日を新たに命を立つ ホウリュウの開運鑑定ダイアリー 正岡子規は慶応3年9月17日(1867年10月14日)出生。明治35年(1902年)9月19日没。


四柱推命で命式を見ると、従旺格。やや身弱で、本来は人のために走り回って、朝から晩まで忙しい。その子規が闘病で動けないということは、相当な精神的苦痛だったでしょうが、そのエネルギーを俳句、短歌の創作に注いだということでしょう。



日を新たに命を立つ ホウリュウの開運鑑定ダイアリー 気学で見ると本命星が七赤金星、月命星が九紫火星。かなりの目立ちたがり屋です。


27宿曜占術でみると、觜宿のうまれ。觜宿(ししゅく=ムリガシラス)…自他共に厳しい誇り高き指導者という意味です。七転び八起きの精神でエネルギッシュに難関を打破して行く事ができますが、意外に臆病な面もあり、積極性と消極性が中和して冷静な写実主義が闘病生活の中で生まれてきたとも考えられます。


子規の創作意欲は短い生涯の中でも脱帽させられる部分です。