
溶けて枝に引っかかった時計で有名な、あのダリ、である。
スペインにあるサルバトーレ・ダリ美術館のものを中心に約50点の絵が来た。
同じスペインでいうとピカソとかミロと同時代の人である。パーツは精密で写実的だが全体は変、という絵を得意とした。
ちなみにピカソはダリより24歳上、ミロは12歳上。ダリは1989年84歳で死去。ピカソは1973年92歳で死去、ミロは1983年90歳で死去と、みんな長寿を全うした。三人ともスペインの地中海岸沿で育った。また、5大シャトーの一つ、シャトー・ムートン・ロッチルトはエチケットに毎年違った有名画家の絵を入れることで有名だが、この三人とも採用されている。年齢とは逆にダリは1958年ビンテージ、ミロが69年、ピカソが73年という順になっている。
ダリの絵を見ていると気持の揺れを感じる。ピカソのような「これでどうだ!」という力強さはあまりなく、「こんなん描いてみたんだけど」というような。例えば光の入れ方についていえば日没寸前のほぼ水平方向から照らされたときの影をよくつけている。
ド素人の私でもわかるがWEBや画集で見るのと美術館で絵を見るのは全く別物である。美術館で絵の前に立つ。壁に直接かけてある絵だと画家が絵の具を塗ったときの立ち位置とほぼ同じポジションに立てる。その画家がどんな気持ちでその絵を描いたか。その時に聞いた音、直前に食べたもの、その頃交際のあった人たち、そんなことを想像しながら心を空にして観る。もう観るというよりは「感じとる」ことに近い。(したがって見ようとする絵がガラスケースに入っていたりするとこの辺のものが台無しになってしまう)
そんな風にして絵を観ると絵が聞こえたり、触感や味覚を感じたりする。(共感覚、という)
これは別に変ったことではないと思う。皆さんも懐かしい写真を見れば、その時のまわりのざわめきや一緒にいた人の声、その前後に食べたものや感じたことをすべてセットにして思い出すはずだ。つまり、写真を「聞いたり」「触ったり」しているのである。
今回のダリ展では「地質学的反響 ラ・ピエタ」の前に立っている時、なにかカンカンという鐘の音を聞き、ザラッとした物をなでているような感じがした。
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閑話休題。今を去ること20年前のこと。年号が昭和の頃で私は銀行員、もちろんまだ帽子はかぶっていない。私はスペイン語をしゃべれるようになって帰って来いということで当時働いていた銀行からスペインに送り込まれていた。その時、研修名目でサルバトール・ダリ美術館にも足を伸ばした。
バルセロナの北東120km、スペイン国鉄で2時間くらいのところにダリの故郷、フィゲラスという街がある。昼過ぎに現地について一緒に行った某銀行の研修生と「昼飯食いながらまぁ一杯」ということになった。(あの辺りはシーフードが美味くて地の白ワインとよく合うのである)ムール貝を蒸したやつを皿いっぱい貰ってぱくぱく食ったのを覚えている。気がつくと午後4時過ぎ。あわててダリ美術館へと急いだ。
「閉館の5時には充分間に合うね」とチケットを買おうとすると、「入場は4時半でお仕舞いだ」という。
スペインで身につけたこういうときの対処法は、①相手を言葉で説得する、②おだてる、③懇願する、④怒る、またはこれらを組み合わせて繰り返すことだが相手はついにチケットを売らず、我々はミュージアムショップで絵葉書だけを買って帰る羽目になった。考えてみれば酒を飲んで顔を赤くした日本人が「もう一生来れないんだ、ダリを見たいんだ、頼むよ、セニョール!」と言っても説得力はなかったかもしれない。
今、google earthで確認してみたら駅からダリ美術館まで直線で約650m。そりゃ真っすぐに美術館に行かなかった方が悪いのである。
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