君たちはどう生きるか | K.O.のブログ

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「君たちはどう生きるか」 宮崎駿監督作品を昨日観てきた。


宣伝なしという事で、前情報も何もない状態で観てきましたが、観た後でネットで検索してみると、賛否両論の様ですね、色んな考察を観た人それぞれがしているみたいですね。タイトルの元になった「君たちはどう生きるか」という小説は読んだ事は無いですし、監督が影響を受けたと言っているらしい「失われたものたちの本」というのも知らなかったので、そのうち読んでみようかとも思うが、わたしも思った事を少し書いてみる。名前とか細部はいかんせんうろ覚えであります(笑)
ちなみに、ネタバレだらけなので、まだ観ていない人は見ない方がいい

 

根底には、自身の母親と父親への想いがある作品に思えます。
この作品に出てくる風景だとか事柄というのが、まさに宮崎駿の子供の頃の景色や体験なんじゃないかと、そうした他人にはあまり明かさない物を見せられている気がして、若干居心地が悪い様な気にもなる多分に私小説的な作品。主人公は幼き日の監督自身の投影というのは少なからずあるでしょう。

 

本作は完全なファンタジー作品です。

抽象的な表現がたくさんあって、よく分からないものも当然ありますが、物語の筋道は分かりますよ。
主人公の母親が亡くなり、新しく家族になった継母と、そういう状況を作った父親、この現実を受け入れるまでの、少年の心の葛藤と成長を描いていて、戦時下の世の中が混沌とし、人々が疲弊してくる中での、自身でもよく分からない不安、父親への反感、亡き母への思いと、新しく継母になる人への、どう接していいか分からない心の整理がつかない感情。ここには悪意や欲望という物も含まれますが、それらが「青サギ」が擬人化した姿を借りて主人公自身を惑わす。悪魔の囁きであり、青サギとは主人公の裏の顔といってもいい。青サギは最初は敵対したり、亡くなった母親を再生しようとしたりする。これは母親が生き返って欲しいという欲望ですね。そしてこの冒険を通して仲間になり、最後には「友達」になる。主人公の持っている現実と折り合いのつかない感情の集合体と最後には、それも全部自分自身なんだとして、今の世界を生きていこうとなる。

 

話を少し順に追っていくと、「不思議の国のアリス」のうさぎに誘い出されるアリスみたいに、この作品では青サギに主人公マヒトが誘い出されます。
妊娠中でもあり、主人公の怪我を気に病んだ事もあってか、心神喪失して失踪した継母をマヒトの大叔父が建てたという朽ち果てた塔に探しに行くのですが、ついてきたキリコ婆さんに「継母の事が嫌いなんだろ?探しに行くなんておかしいよ」みたいな事を言われますが、彼が行動する理由は、亡くなった実母が、将来思い悩んだ時に読んでもらえたらと願い贈った「君たちはどう生きるか」を読んで、涙を流した事による。この作品のタイトルがなぜこうなのかと、観る前は思いましたが、こういう事なんですね。後悔とか反省とかもあるでしょうが、相手を思いやる気持ちが芽生えたという事でしょうか。これぞ主人公ですね。
マヒトは自身の頭を石で打って、大けがをしますが、この衝撃によって普通は目に見えない異世界が見える様になったと見る事も出来るし、途中でおばあさん達が語る、昔空から隕石が降ってきて、それを囲む様に主人公の大叔父が塔を建てたという逸話から、何か人智を超えたパワーを秘めた宇宙から来た物体が、主人公の創造力を呼び覚まして現れた異世界とも見える。
この主人公の一族の大叔父が建てた塔というのが、異世界への入り口であって、「となりのトトロ」みたいに、普段は目に見えない隠された秘密の場所に向かうワクワク感や「千と千尋の神隠し」の様に、怖い物見たさといったドキドキ感はありますね。

 

異世界に入り込む作品って、小説でも映画でもファンタジーとして様々なパターンの作品がたくさんあると思うが、フランク・ボームの「オズの魔法使い」や映画「ジュマンジ」とか、映画の冒頭を観ていると、古事記の「イザナギの冥界下り」や宮沢賢治の「グスコーブドリの伝奇」だとか、ファンタジーの始祖と言われるジョージ・マクドナルドの「北風のうしろの国」だとか、ギレルモ・デル・トロの映画「パンズ・ラビリンス」が思い浮かぶが、監督自身の「千と千尋の神隠し」の影響を「パンズ~」は受けてそうだから、これはたまたま似てるだけでしょう。これらはあくまで余談です。
本作での異世界は、時間や空間を超越している世界であり、塔の中にある様々な時代に繋がっている扉が並んでいる所は、ミヒャエル・エンデの「モモ」に出てくる回廊っぽい。亡くなった母親が若き日の姿で登場するが、死者の世界というわけではない。ラストも先にあげた「北風~」「パンズ~」「グスコーブドリ~」が自己犠牲であったり、人々の為に現実世界を改善して、向こうの世界に行ってしまう(現実世界では死)のとは真逆であり、主人公は現実世界を生きていく。

異世界が現実世界の反映であり、裏返しでもあると言うのは、ファンタジーの定番ですが、この「君たちはどう生きるか」もその形を取っていると思います。
ただ、主人公は世界を救ったり、不幸な結末を改変したりはしません。

 

その異世界の塔というのは、行方不明になった大叔父を主人として、この世界の均衡を保つべく存在していて、まもなく均衡が崩れようとしている。同時にマヒトの心の平安の均衡ともかけて表現されていると思われる。彼の中にある悪感情、それは継母と父の関係を認めたくないという感情や、冒頭で学校の友達と喧嘩をして、家へ帰る途中でわざと自分の顔に石を叩きつけて大けがをする自傷行為で「学校に行かないでいいようにする」、それが父親や継母に心配をさせる結果になり、継母の失踪に繋がるわけだが、塔の中で彼女を見つけ出し、今まで言えなかった「お母さん」と言う言葉を何度も言おうとするが、吹き付ける風の力に邪魔され、ついに言葉として彼女に伝わったが、力つきてしまい、塔の中の世界を管理するインコ大王から禁を破ったとして捕まる。この世界で問題視されたのは、産屋に入った事で無く、「継母を新しい母親として認めた」事ですね。
こうして見ると、この異世界というのは、主人公自身の内面世界とますます思えてくる。

位置づけとしては、マヒトの妄想世界なのだが、ただの妄想世界ではなく、大昔に落ちた隕石の力で作り出された本当に何らかの普通の人の目には見えない、それこそ世界の均衡を保つ役割を持った時空を超えた不可思議な世界と混じり合っているのかどうか?果たしてそれは実在するのか?
と創造力が生まれるのがファンタジーですね。
ただしビジョンとしてはマヒトの頭と目を通しているので、彼の生きている世界が反映されているであろうし、子供時代に同じく神隠しにあったと言われるマヒトの母親ヒミのビジョンも反映されているかもしれないし、それらがはっきりとは分からない所もまたファンタジー。

 

作品に登場する動物や事柄の意味を少し考えてみると

塔の中の住人のおびただしい数のインコ人間(現実世界に出るとインコに戻る)は、大叔父のいる庭園にはなぜか普通のインコがいるのだが、それを「ご先祖さま」って言ってたから、「猿の惑星」の猿みたいに時空を超えた未来の進化したインコなのか?まぁ「猿の惑星」は67年のピエール・ブールの小説が原作で、作者自身が日本軍の捕虜になっていた経験から、猿のモデルは第二次大戦の日本兵という裏話があるが、この映画の舞台の1944年頃よりは時代が下るから、関係は無いのでしょう。
なんでインコなのかよく分からないのだが、大叔父が昔、塔の中でインコを飼っていたという所から来ているのだろうが、インコってこの戦争の頃って、日本に野生はいませんよね。ペリカンもそうですが、完全な外来種ですし、一般的にペットとして飼われだすのは、もっと後の世です。この時代の大金持ちの大叔父がペットとして個人輸入したと考えられますが、主人公にとっては動物園や絵本で見るぐらいでしょうか。
戦前や戦時中って、南洋を描いた冒険小説が少年たちの読み物として一般的で、今の人が考える以上に南洋に憧れの感情を抱いていたと思うのですが、植物や景色は南洋っぽい所がありましたが、動物は主に鳥しか出てこないが、主人公の空想の産物として南洋の鳥が描かれていると見えない事もない。そして、この世界がそうした側面があると考えると、この主人公の少年のイメージとして表現されたインコが何を表しているのか?というのは、インコは父親の「工場」で戦闘機を作っている工員達で、インコ大王は父親ですよね。「鍛冶屋」がインコ達に占拠されていたのもそういう事でしょうし、インコ大王が若い姿の母親をマヒトから引き離して棺みたいな箱に入れて仰々しいパレードをして大叔父の元に連れてくるのも、継母を出産の為に部屋に閉じ込めているのも、マヒトの心の中での父親の姿じゃないでしょうか。

 

ファンタジーなので、思想的な意味を当てはめるのは、あまり好ましくないとも思いますし、人によって色々と思い浮かぶものは違うかもしれませんが、この作品の舞台が戦時下という事から考えると、亡者の様な人達がいる壊れた大きな舟は、「戦争をしている日本の国」で、ペリカンは、これからこの世に生まれていくという「ふわふわ」(こんな名前だったような?)という生き物を仕方無く食べているが、ペリカンは、冒頭でも「どうせ勤労奉仕などしかしない学校など行かなくていい、家で勉強できる」みたいなセリフを父親が言っていたと思うが、戦時中の学生に課した「勤労奉仕」、国民に課した「戦時下での愛国心」を全うする人々の具現化に見え、そう考えるとあの大きな墓は「ナショナリズム」、「ふわふわ」は子供達が持っている「創造力」だとかでしょうかね。ヒミは炎でペリカンを追い払うのですが、一緒に「ふわふわ」も何匹か焼き尽くしている。キリコが「ああしないと全てペリカンに食べられてしまうから」と大切な者を守る為には犠牲は仕方が無いという事をわざわざ表現している所も、彼女のその後の運命を暗示させているかは知りませんがミソですね。
この辺は、子供達の創造力が「無」に蝕れつつある事をファンタジーで描いたミヒャエル・エンデの「はてしない物語」っぽい。

 

登場シーンで思わず「うわぁ(汗)」と思ってしまった、お婆ちゃんの群れ(笑)ですが、なぜか7人もいるが、戦時下の疎開先だと若い人はいないだろうから、こういうものなのかなとも思うが(廊下をわらわらと行進している時に、階段の奥に誰かいるのがチラッと見えたのだが、あれは誰?登場しきっていないお婆ちゃんかもしれないが、ソフト化されたら確認してみよう)
現実世界の家にいる他の6人のお婆さん達は、異世界では人形になってマヒトを守っているが、唯一追っかけてきたキリコ婆さんが、この塔の中の地下世界では若い姿に変身してマヒトを助け、なぜか頭には彼と同じ所に傷があるのがよく分からないが、おそらく、ここがマヒトの世界だとすると、彼の守護者として、使い魔的な立ち位置で主人のマヒトを介して実体化したから傷も同じ所にあるという事かもしれないですね。傷は主に付けられたって言ってたし。

 

同時期に公開されているディズニー映画の「マイ・エレメント」のポスターが横に貼ってあったから言うのではありませんが(笑)、西洋哲学の四大元素の要素もありますよね。最近では、日本の漫画やゲームでもよく表現される物ですが、火、水、土(地)、風の属性で、誰かが何の属性を持っているとかは、ヒミの火やマヒトの風以外は割り振ってはいないですが、塔の中の世界の構成要素として、様々な所に出てくる。特にやはり「火」の描写の力の入れ方は大きいですね。冒頭の火事のシーンとか、これぞ日本のアニメーションだというぐらい素晴らしいですよ。また「火」ほど二面性のある物はなく、プロメテウスの逸話の通り、人間に文明をもたらした物でもあり、その反面、破滅をもたらす恐ろしいものであるという使いようによってそれは良くもなり、そうで無くもなるという事を言いたいのかもしれないですね。
 

さて、マヒトが塔で「13個の石」を積む事を、大叔父から言われるが、この13って意味あるんですかね?
マヒトは12歳ぐらいに見えるので、この戦時中の時代の数え方では、数え年で13歳。彼が悪意で汚れてしまったというから、大叔父が、新しい綺麗な石を用意して積み上げる様に促すが、
これは年齢ではないでしょうか。マヒトが石を積み上げてしまうと、もう現実世界へは帰る事も無く、向こうでは死んだことになって、この世界で生きていく事になる。
結果的に積み上げてある石をぶち壊して、最後に主人公を連れ出す事になるのは、この世界を管理している父親であるインコの王。
この時代ですから、父親の家長としての存在は絶対です主人公は父親の敷いたレールの上で生きるしかない、それに対する思春期の少年の反抗といったよくある図式でもあると思います。
もちろん頼りになる事は当然ですが、その反面、物語の最初から少し破天荒ではあり、その行動がマヒトにとってマイナスに働く事も多かったですが、父親ってずっと世間体など気にせず、息子を思い気にかけてきましたもんね。塔に入ったマヒトを必死で捜索していた姿も目にしていますし。その気持ちがマヒトにも分かったのだと思います。
その親子のわだかまりが、少年の心の中で溶けた。そして亡くなった母親への想いと、新たに継母を母親として迎え入れる心の整理が出来、この世界を生きていこうと、少し大人になった主人公を描いた物語。


登場する事柄が何を意味するのか?は、ここに書いたのはあくまで観ていて私がそう思っただけの事ですし、もう一回観たら、また別の事が思い浮かぶかもしれない。


大叔父のいる庭園に浮かんでいた、まるでルネ・マグリットの絵の様な大きな石、ルネは創造力の果てというテーマで描いていたとも言われますが、
観た人それぞれがいろんな事を思ったり、まぁ何も考えずに楽しむのもよし、「君たちはどう生きるか」と問いかけている様に、それがその時点のその人には正解じゃないでしょうか。作った本人も自分の手を離れて作品が拡がっていくのは、
本望かもしれないですね。いや知りませんけど

 

(追記)
勝手に拡げるついでに言うと、わざわざ、様々な時に繋がっている回廊が出てくる事や、マヒトが塔に入った時に、最上階にいる大叔父が何かを落とすのですが(ちょっとうろ覚えで、薔薇か何かだったような)、マヒトのいる地面に落ちた時に、ガラスが砕けるみたいに、一瞬にして時が経たような描写があり、過去の大叔父から未来にあたる主人公への挨拶を表していると思うが、
過去と未来が共存する事になるが、あの塔の主である大叔父は、新しい石を積み上げて世界の均衡を保つ事を承諾した未来の主人公の姿とするのが、物語の結末として個人的には一番しっくりくる。最後に主人公が元の世界へ帰る扉の数字が「132」というのは、意味があるのか知りませんが、無理矢理こじつければ、1=過去、2=現在、3=未来としたら、過去の世界から来た母親に会い、未来の自分自身と出会い、現実世界へ帰って行く事を数字で表したと見えない事もない。

 

 

(この作品を観ながら思い浮かんだ作品)
 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

この映画、大好きなんですけど、だから言うわけではありませんが、似ていますよ。

ただ、こちらは、主人公達それぞれの不幸な人生を「勇気」で最高の物に改変する。エンターテイメントとしては最高。 柱の古い大時計が真夜中に13の時を打つ時(通常は12時は12回音が鳴り、次の1時は1回しか音が鳴らない)、アパートの裏口に、そこにあるはずの無い19世紀のヴィクトリア時代の庭園への扉が開かれ、足を踏み入れたトムは、そこで少女ハティと出会います。
私の子供時代の宝物でもある、この作品。私には13という数字は13の時を打つと、誰でも大人になると忘れてしまう、しかし誰もが心の中に持っている子供だった自身、その世界が目の前に現れるというシチュエーションが頭に浮かんでしまうんですね。
  「君たちはどう生きるか」でマヒトが若き日の母親に出会うシーンは、「トムは~」もそうですが、この作品も思い出しますね。
美しい女性の姿をした「北風」に導かれ少年は夜のロンドンを飛翔する
「人はわたしを恐ろしい名で呼ぶし、わたしのことを何もかも知っている気でいるわ。でも本当は何も知らないの。何よりも恐ろしいとみんなが考えている名がもう一つあってね・・・」