日本のボクシングファンは昔から、我らが英雄が打ち破られようとも、強い選手、一生懸命戦う外国人選手を応援してきた。フラッシュ・エロルデ(比)、チャチャイ・チオノイ(ラムフェーバー・タイ)等は、日本のリングでキャリアを積み世界王者となっている。
ジョー・メデル(メキシコ)は、”ロープ際の魔術師”として日本のファンに恐れられ、そして愛された。ファイティング原田(笹崎)選手を初めてノックアウトに破った男の肩書きは、元世界バンタム級1位。キャリアの全盛期には、”黄金のバンタム”エデル・ジョフレ(ブラジル)が王座に君臨。
ジョフレを破った原田選手への挑戦がかなったときには、悲しいかな自らの全盛期は過ぎ去っていた。
「技術では私のボクサーは負けていない。原田の若さと、スタミナにテクニックを封じられた」
原田戦後のルペ・サンチェスマネジャーの言葉である。しかし、後年、原田選手をイメージして育てた元サッカー選手ペドロ・フローレス(メキシコ)が、V13王者具志堅用高(協栄)選手から世界王座を奪取。サンチェス氏はメデルの仇を討った。
”67年1月、最後の世界挑戦に敗れたメデルは、目標を見失ったのか、勝てない選手に堕ちていく。36歳になったロープ際の魔術師”が、親日家のサンチェスマネと選んだラストファイトの地は日本だった。
1974年6月9日、後楽園ホールは2千人の観衆で埋まった。ミュンヘンオリンピック代表からプロ入り、以来9連勝8連続KO勝利を続ける”KO仕掛け人”ロイヤル小林(国際)vs元世界バンタム級1位メデル。リングの紳士メデルは日本で人気があった。
関 光徳、坂本春夫、矢尾板貞夫、ファイティング原田、斉藤勝男、大木重良、金沢和良、・・・。61年8月の初来日で関選手を見事なカウンターブローで倒したのを初めとし、メデルは11人に渡る日本が誇るバンタム級スター達とグローブを合わせてきた。
日本で敗れたのは原田選手へ挑戦した世界戦と、キャリア晩年の金沢戦だけである。
国際ジム高橋義徳会長が、両親に「私に3年間預けてください。必ず世界チャンピオンにさせますから」といって預かった小林選手は、プロテストで元日本王者で世界挑戦の経験もある岩田健二(金子)選手をダウンさせ、A級ライセンスを取得。
大いに注目されたバロン熊沢選手とのデビュー戦こそ倒せなかったものの、以後順調に育っていた。
小林vsメデル戦はフェザー級契約。老雄は初回から小林選手の強打を浴び、早くもグラついた。3回には左目上をカットし苦しい展開。時折放たれるカウンターにも、往年の威力は消えうせていた。
そうした中で迎えた第3ラウンド。メデルは意地の一撃を見せた。
グイグイ前進する小林選手の得意は左フック。
「サンドバック揺らせてさァ。あればっかりカシーン、カシーンって打ってたなァ」
メデルはその小林選手のお株を奪うような左フックを、”KO仕掛け人”にカウンターして見せた。大きく腰を落としたホープはキャンバスへ倒れこむ。しかし、小林選手は必死にメデルにしがみつき、二人はもつれ合うような形で一緒に倒れこんでしまった。
誰もが「ダウンか」と思ったシーンだったが、惜しいかな、裁定は「スリップ」。
メデルには”不運”という言葉も良く似合った。
以後、小林選手の若さに押されたメデルは、第6ラウンド日本で始めてキャンバスに落ち、カウントを聞かされた。傷もひどく、結局6ラウンド終了ストップで若きホープが順当に勝利。、貴重な経験をつんだ価値ある白星。
メデルは日本のファンに接戦を詫びた。
政府の体育学校で後進を指導する他、食料雑貨店の経営も順調。しかし、気になるのは、「なぜ、ボクシングを続けていたんですか?」
「ボクシングが好きだからです」
「どうして日本を引退の花道に選んだのですか?」
「私の記憶には日本あまりにも懐かし過ぎるのです」
「全盛期の多くは日本で試合をしましたから」
19年間に渡るボクサー生活は、日本のリングでピリオドが打たれた。
最後を見届けたファンからは、惜しみない大きな拍手。
そして、メデルは泣いた。
生涯戦績112戦73勝(45KO)30敗9分。2001年1月31日没。
ラストファイトの相手、ロイヤル小林選手が世界王座を掴んだことも、”無冠の帝王”メデルの大きな誇りだろう。
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