森田氏は元新和拳選手。昭和34年(1959年)のデビュー。ファイティング原田(笹崎)選手とは4回戦で対戦。斉藤清作(タコ八郎・笹崎)選手に敗れると、13勝5敗3分の戦績を残し引退。昭和39年(1964年)、一般公募から29歳で審判員に転向。
審判員としての人生を優先させるため、勤務していたインドネシア大使館は退職。以後、国内外を問わずレフェリー、ジャッジとして大活躍された。
初めて世界タイトルマッチのレフェリーを務めたのは、1969年(昭和44年)3月30日札幌で開催された世界フライ級王座決定戦。海老原博幸(協栄)vsホセ・セベリノ(ブラジル)の一戦。
米国で世界ウェルター級王者トミー・”ヒットマン”・ハーンズの防衛戦も裁きましたね。飯田覚士(緑)vs井岡弘樹(Gツダ)戦では、試合後興奮した関係者から殴られるという事態に見まわれた。畑山隆則(横浜光)vsリック吉村(石川)戦では、毅然とリック選手からホールディングの反則減点1を取った。
’05年レフェリーを引退するに際し、「これからは世界に通用するレフェリーを育成する」との抱負を語られている。
森田氏がレフェリー引退記念に出版された本がこれです。
『レフェリーとして ボクシング人として』(自費出版)
たくさんの想い出の写真が掲載されています。
安河内氏の処遇、調査結果の是非は別として、大ベテラン森田氏が現場のトップに立ち、ボクシング界の為に頑張って頂ける事になったことは、尊敬に値します。
公明正大、いじめのない、それぞれの能力が活かされる職場環境作り。期待いたします。
応援、深く感謝です! → 【TOP】