「だから僕は、近いから歩いて行きますって」
「そうしたら、それじゃ貴方疲れるでしょ。いいのよ、気にしなくてって言ってくれて」
「4回戦の僕一人ですよ、計量行くの。うれしかったですねェ」
飯田橋の帝拳ジムから後楽園ホールは電車で一駅、歩いても大丈夫な距離である。桑田先生に師事し、数年前帝拳ジム所属の4回戦ボーイとして戦った元ボクサーは、長野マネジャーへの感謝の気持ちを今も忘れない。
「凄いねェ。4回戦一人って言っちゃ悪いけど、そこまでしてくれるんだ。それじゃ、やる気になるよなァ。良かったねェ」
計量前の選手はギリギリまで体を絞り込む。お風呂(サウナ)上がりでサッパリした風体で来る者、ガムを噛みながらつばを吐き出し続けながら来る者等、その表情を見れば選手の状態は掴める。その日、彼がどんな顔していたのかはわからない。しかし、その気配りはさすがである。
「だから強い選手出るんだねェ」
長野マネジャーが、帝拳株式会社に入社したのは昭和23年(1948年)。先代本田 明 会長が三田に帝拳ジムを開設したばかりの頃。そして、昭和30年代に入ると帝拳ジムは黄金時代を迎えた。
名古屋。世界王者ダド・マリノ一行を導く先代本田 明 会長(左)。
福地健治、小林久雄、高山一夫、品田 博 、小坂照男、渡辺 亮 、金田森男らのそうそうたるメンバーが活躍した”黄金時代”。高山選手、小坂選手は世界王座にも挑戦したが、先代会長の夢はかなえられなかった。”天皇”とも言われた先代会長は、後ろへ下るのが大嫌いだったと聞く。
昭和40年7月、本田 明 氏永眠。大場政夫選手が帝拳ジムへ入門するのはその一ヶ月ばかり後の事である。黄金時代一転、ランキングボクサーが皆無という状態にも陥った帝拳ジム。
タイトル防衛の大場選手。なせだか同じポーズの本田会長。(~~)
そんな時代を支えた長野マネジャーの苦労が報いられたのは、世界フライ級チャンピオン大場政夫選手の誕生。合宿生大場選手の食事の世話も担当、デビュー戦の計量にも付き添った。まだ減量の必要がなかった17才の大場選手。
帝拳ジムが始めて取ったアマチュア選手は、瀬川幸雄選手。世界王座奪取は惜しくもならなかった。2人目の世界王者となったのは浜田剛史選手だった。浜田選手の苦労を見て以来、アマ選手に対する考え方を変えたという。
浜田選手、感動の世界奪取。
「大先輩だよ。だけど、4回戦の子一人でも必ず試合場に来るのは感心するよ。偉いって思うよ」
そのきめ細かさが、選手の活躍を側面から支えているのだろう。
「大竹さん、瀬藤君が来るんだったらちゃんと席用意しますよ」
10月4日、日本Sバンタム級王座防衛戦に挑む下田昭文(帝拳)選手の試合チケット購入を帝拳ジムにお願いした大竹マネジャーに、長野マネジャーから電話が入る。
「選手が観に来るんだったら、いつでも言って下さいよ。ちゃんと席用意しますからね。気にしないで」
「いや、違うんです。熱心なファンの方がいて頼まれまして。お心遣いありがとうございます」
下田選手に唯一の黒星を味合わせている瀬藤幹人(協栄)選手。自分の所の選手ばかりでなく、ライバルに対しての、この心遣いには頭が下る。
「俺なんかにあそこまで言ってくれるんだよ。うれしいねェ」
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坂田健史(協栄)選手が念願の世界王者に就いた時も、師弟コンビは帝拳ジムへ挨拶に出向いている。帝拳ジム本田会長の尽力でパーラ戦は実現した。
「良かったわねェ、坂田君。長かったもんねェ・・・」
「あの時も、長野さん喜んでくれてうれしかったなァ」
ボクシング界随一のキャリアを誇る長野マネジャーを慕うのは、帝拳ジム選手、OBのみならずである。さらなるご活躍を、ご祈念いたします。
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