1971年9月、アントニオ・ゴメス(ベネズエラ)との防衛戦に敗れ、約3年間君臨したWBA世界フェザー級王座に別れを告げた西城正三選手。この試合の赤コーナーには、イトウ先生と共に親友エディ・タウンゼント氏(故人)がセコンドにつき、珍しい両者の揃い踏みとなりました。
当時の世界フェザー級。71年4月のWBAランキングです。
チャンピオン 西城 正三 (協栄)
1 位 アントニオ・ゴメス (ベネズエラ)
2 位 エデル・ジョフレ (ブラジル)
3 位 ホセ・レグラ (スペイン)
4 位 柴田 国明 (ヨネクラ) WBCチャンピオン
5 位 ロベルト・デュラン (パナマ)
6 位 フランキー・クロフォード (米)
7 位 ゴドフリー・スチーブンス (チリ)
8 位 ビセンテ・サルジバル (メキシコ)
9 位 エルネスト・マルセル (パナマ)
10 位 ホセ・アメカ (アルゼンチン)
実に凄いメンバーで、ランキング選手10人の内7人が、世界チャンピオンになっています(解りますか)。世界戦となると10位のアメカ選手以外は、皆世界タイトルマッチを経験しています。
大竹マネジャーが、現役を退いてからだいぶたった頃の西城先輩に「デュランとやらなくて良かったですね」と冗談を飛ばすと、「ホントだよ、殺されちゃう所だったよ」(~~)と見事に切り返しているのには、大笑いさせられてしまいしました。私はデュランが東京に来た時、水道橋の焼肉屋さんで、ビールを注いであげた事が一番の自慢話ですね。(~~)
さて、西城選手に次ぐ協栄ジムのスターは、元祖”沖縄の星”上原兄弟でした。アマチュアの頃から沖縄では大変な人気。当時は内緒でしたが、契約金が1千万円も支払われていました。凄い!
兄・康恒選手は協栄ジム入りして、そのままハワイのイトウ先生のところへ預けられ、ホノルルで1972年11月14日プロデビュー。その1週間後には第2戦やってます。
そして、弟・フリッパー上原(晴治)選手はロスでプロデビュー。二人揃って、故郷沖縄での凱旋試合が組まれたのが73年11月。この凱旋試合で兄・康恒選手は、時のWBC世界S・フェザー級王者・リカルド・アルレドンド(メキシコ)を判定で破る大金星。デビュー僅か1年で、世界ランキング入りを決めました。
弟のフリッパー上原選手は、元世界フェザー級9位・メミン・ベガー(メキシコ)に一方的な判定勝ちを飾り、見事故郷に錦を飾りました。
この時ベガーのスパーリング・パートナーを務めたのが、モスキート級の高校生ボクサー・具志堅用高選手でした。このスパーを見た先代金平会長が、「懐に入り込む度胸の良さ」を見抜き、後の協栄ジム入りとなったわけです。
高校生の具志堅選手。銭湯を経営していた上原家に下宿していました。下宿代はタダ。しかし条件が一つ。ボクシングをやること。なんだか訳がわかりませんが、こうして世界王者・具志堅用高誕生へと”星”は動き始めていました。
一躍日本を代表するホープとなった上原兄弟ですが、これから茨の道が待っていようとは、知る人はいません。兄・康恒選手が世界王座にたどり着くのは、この凱旋試合での勝利から7年も後の事です。
「あんなに練習する人が、世界チャンピオンなれない訳が無いと思っていた」当時の康恒選手の練習を見ていた大竹マネジャーがよく言ってました。それくらい練習していたと・・・。
続く・・・。