移籍を決断した4年生の10月。


代表に辞めることを伝えると、

「一応人数を集める努力はするから

やめないでほしい」とのこと。


10月の末に体験会を実施しましたが、

結局新入部員は0。


いったん「あのチームは当番が大変だし、

指導者は怒鳴りまくるし、毎週試合で

遠征ばかりだよ」という評判が知れ渡ると、

それを覆すのは至難の業です。


野球は敷居が高いと感じる人が増えている

のは、田舎も同じです。


そして、10月末に退部が決まり、翌年3月

をもって、地元から学童チームが消滅しました。


移籍先は、同じ地区の強豪です。同学年は

13人。無理使いされて壊されることは

心配なさそう。練習は土日のみ。


ひとつ上はちょうど9人。内野はほぼ固まって

おり、かなり頑張らないとレギュラーで試合に

でることは難しい状況でした。



朝練は相変わらず毎日続いていました。


12月のマラソン大会では、毎年ぶっちぎり

で1位になっている子と、ゴール直前まで

デッドヒートを繰り広げ、1秒差の2位。

体力もかなりついてきました。


移籍先では、強肩を生かしてサードを

任されることになりました。


良かったことは、この時の指導者たちに

内野守備の基本を丁寧に教えてもらえたこと。


新人戦には選手登録の関係で出場でき

ませんでしたが、打てずに準優勝。


打撃が得意な長男は、外野での起用なら

レギュラーが獲得できるところまできて

いました。


ところが…


チームを5年間率い、毎年結果を残してきた

監督が勇退。「あの監督がいるから」と移籍

してきた私たちにとっては寝耳に水でした。


後任には、上級生の親で、一応野球経験がある

コーチが就任。


往々にして、新監督は前の監督の野球を否定

したがるものです。(自分の力を誇示したがる)


新監督は「スモールベースボールを目指す」

と言いはじめ、外野での出場機会は0に。


そこからは、A戦では代打、B戦では

ショート・サードでの出場がメインに

なりました。


この時期は、代打で出ては、いいところで

打つ打席が続きます。この頃の活躍で

新聞にも初めて載せて頂きました。


春の地区予選の前には、6番サードの

ポジションを手中にします。


ところが、思わぬ敵はグラウンドの

外にもいました。


最上級生は9人。


息子がスタメンに入ると、ベンチに座る

ことになる上級生の親からのやっかみ

が入るようになりました。


何の説明もなく、いきなり背番号は5から

12に降格し、春の大会は代打のみ。監督の

謎采配で、圧倒的な優勝候補だったチームも

初戦敗退。全国大会はおろか、県大会にすら

出場できませんでした。


苦境に立たされた長男の生きる道は、とにかく

打ちまくること。そしてサードの守備を磨くこと。


コミュニケーションがないため、監督が

何を考えているか分からない。


これは指導者としての自分のいい学びに

なりました。


打っても打っても、スタメンはオール6年。


「グラウンドに出てどんどんアドバイスを

 してほしい」と頼まれて、私も積極的に

 やっていましたが、それがやっかまれて

 いたことも、後になってわかりました。


夏の大会は、地区大会決勝でノーヒットノーラン

を食らって優勝できず。何とか県大会には出場するも、

初戦で4点差を大逆転され、サヨナラ負け。


これでようやく「打てなきゃ勝てない」と

いうことがわかったのでしょう。


夏以降に長男はスタメンに定着し、背番号5を

取り返します。秋の地区大会は優勝。 県大会

でもベスト8に入って6年生は引退しました。


この年は、6年生に交じって打率・打点・

ホームランともにチーム3位。全試合スタメン

で出場していたらなぁ、と思います。


一方で、思い通りにならない状況の中で、

気持ちを切らさずにやるべきことをどう

頑張っていくかを、親子で勉強させて

もらった期間でした。


つづく…