藤波さんは、こんなにすごいレスラーたちと、闘って来た!
藤波選手のはじめての対戦・対戦選手全部紹介!(対戦相手データベース) 2023.1.19更新
■ 2 WWWFジュニアチャンピオン時代(つづき)
「ドラゴンブーム」も少しおちついたかな?という 1980年(昭和54年)
NWAのジュニアに挑戦!というような話題なんかも出てきます。
この年に、藤波さんが国内で、はじめて対戦した選手です。
順番に見てゆきましょう。
◆新春黄金シリーズ
★初めての対戦★
※跳躍力がものすごくて、思わず声を出してしまうくらいでした。でも、同時に来日して来た「ダイナマイト・キッド」が凄すぎて、だんだん元気がなくなり、残念というか、かわいそうでした。 藤波さんとは、この前年の79年にロサンゼルスで対戦していて、初対戦がWWFジュニアの選手権でした。藤波の余裕のある試合展開でしたが、ヤングの、意表を突いたドロップキックから、飛び起きてのフォールで1本とったのが印象的でした。そのときの勢いが、この来日時は見られなくなって残念でした。藤波さんとのシングル戦績は、藤波の4勝です。、 なお、普通は「スキップ・ヤング」ですが、新日本では「スキッピー」と呼んでいましたので、それに従いました。
※ドロップキックの名手で、アーニーラッドと組んで日本プロレスのNWAタッグリーグに来日。馬場・猪木のBI砲とも対戦した。実に、10年ぶりに来日したのですが、これが最後の来日となりました。藤波さんとのシングル戦績は、藤波の1勝1引き分け。
※この時が新日本に初参戦。その前に国際プロレスに初来日、そのときの長髪をバッサリ切って、イメージが変わり、カミソリ・ファイターが誕生。 きびきびとしたファイトが素晴らしく、ジュニア時代の藤波さんの好敵手となりました。なんといってもトップロープからのダイビングヘッドは、凄い恐怖でしたし、これをやられる選手も命がげでしょう。また、やる方(つまりキッド)も覚悟が要りますね。
このシリーズに一緒に来日したスキップ・ヤングが、藤波への挑戦権をかけて、一騎打ちをして、ダイビングヘッドで額を割られ(実質KO負け)本当に恐れをなしていたのが試合からも感じ取れました。
後のタイガーマスクのデビュー戦とその後の抗争もすばらしいですが、その元を藤波さんとの一連の闘いで築き上げました。この初対戦のタッグも、いまさらながら「凄い」対戦ですね。猪木・藤波組にスタンハンセン・ダイナマイトキッド組ですよ!
さらに、全日本への移籍後も、ハンセンやブロディーを相手に果敢に攻めてゆくなど、最後まで「爆弾小僧」でしたね。
藤波さんとのシングル戦績は、7戦で、藤波の6勝1敗でした。
※NWA世界ジュニアタイトルを賭けて藤波と対戦。藤波が勝って、タイトル奪取。WWFジュニアとNWAジュニア(インター)の二冠王となりました。
実は、それほど凄さは感じないのだが、実力と落ち着きがありました。そんなところかな、、、
◆ビッグファイト・シリーズ
※「スーパーデストロイヤー」と名乗る選手はたくさんいて、それだけでブログ記事になるほどです。このときのスーパーデストの正体はドン・ジャーデン。以前、日本プロレスに来日していて、「ブッチャー」や「スポイラー」というマスクマンでも活躍していました。全日本での白覆面のザ・デストロイヤーとの覆面10番勝負にも登場しました。 新日本には初登場で、藤波さんとも初対決となりました。藤波さんとのシングル対戦は、1戦で藤波が勝っています。
なお、初期の新日本プロレスに登場した「スーパーデストロイヤー」はネイルグアイ選手の変身で、彼は、その後「ザ・ハングマン」として大いに盛り上げました。人間絞首刑台というニックネームもつき、手には絞首刑用のロープを持ったマスクマンでした。さらに、この後の来日では、「タワーリング・インフェルノ」(藤波が海外遠征中のため、対戦無し)や 素顔の「ザ・ハングマン」として来日。この時は藤波と対戦があるが、シングルは組まれなかった。
RSDは「スーパーデストロイやー」という名前から、「ドン・ジャーデン」と「ネイルグアイ」を混同し、さらに「ネイル・グアイ」と「レネ・グレイ」(似てるでしょう? 共にアンドレのパートナーだし) を混同してしまって、以前のこの記述も間違ってしまいました。ここ「改訂版」では訂正いたしました。
※このエル・グレコは、エル・ベジョ・グレコが正しいリングネーム。メキシコからやってきました。
セルビオと「おかまコンビ」を結成して、初来日です。藤波さんとのシングル対戦はこの1戦だけで、藤波の1勝です。なお、当然ですが、長州のデビュー戦相手の、本当のギリシャ人のエル・グレコとは別人です。はい。
※藤波さんとは地元メキシコでWWFジュニアタイトルマッチで対戦。3本目で藤波の原爆固めが両者の肩がついていたという、いわゆる「ダブルフォール」で引き分けた、その実績をもって初来日。藤波との国内シングル対戦は1試合だが、その試合で藤波の飛龍原爆固めを受けて、負傷帰国している。
※プログラムやテレビ放送では「エル・エルモソ」と表記されています。エル・グレコとのコンビで活躍しました。グレコとは何度か来日していて、3回目の89年の時には、藤原・木村健悟組とのタッグマッチで、レフェリーの高橋も交えて、「両手を水平に開いてヒラヒラ蝶々跳びで選手をまたぐ」や「相手選手とのキス」攻撃など、おかま攻撃攻撃を、両軍とレフェリーの5人で繰り広げ、場内は大爆笑も、解説席の山本小鉄は激怒したという試合がある。そのときには藤波さんはビガロやベイダーとのヘビー級を相手にしていました。
タッグが専門のようなところがあって、藤波さんとのシングル対戦は組まれなかった。
しっかし、この藤波さんとの初対戦は、「新日本プロレスの創立記念日」で、創設期の藤波・浜田組はいいとしても、相手が「おかまコンビ」ですかあ。(笑)
※あのチャボゲレロの弟のひとり。ロサンゼルスでの初対戦でWWFの選手権試合が組まれ、それが好試合であったことから、初来日のこのタッグでも注目された。だが、残念ながら、印象に残る程の活躍は出来なかった。 藤波さんとの対戦ではシングルで藤波の1勝。
なお、このシリーズ途中、タッグで藤波の「飛龍原爆固め」を受け、負傷し帰国した。
ところで、この6人タッグのパートナーの「シーク」は「アイアン・シーク」です。ゴシロ・バジリの変身です。ただ、キャラクターが大きく変化することはなかったので、独立した項目にはいたしません。
※このグラハム選手は、往年の名選手エディ・グラハムの息子です。藤波さんとの絡みは、NWAジュニアヘビータイトルをめぐっての闘いでした。この2月にフロリダで藤波に挑戦して、足4の字固めで勝利。チャンピオンとなり、この初来日となった。このシリーズ最終戦、4月4日蔵前で藤波がグラハムを破り、タイトルを奪取して、山本小鉄の引退に華を添えた。
藤波さんとのシングル対戦は、この1戦で1勝でした。
※野坂昭如先生の命名による「阿修羅・原」選手が、ジュニアヘビー級であったころの最初の対戦。
国際プロレスからの刺客という以上に、この試合にかける国際プロレスの意気込みは強かった。
藤波の「飛龍原爆固め」が危険すぎるということ(このシリーズで⒉人の選手を負傷帰国に追い込んだ)で封印された試合。この封印は「WWFからの命令で」ということだが、実際には国際からの嘆願?ではないかとも思われます。か、決まり手が「裏三角絞め」であり、これは藤波さんが普段使わない技であったため、「藤波がやらかしたのではないか」とか、いろいろとファンの想像を膨らませてくれる試合として有名ですね。この試合について、後日、藤波さんが「(プロレスの技術とかは別として)タックルだけは本物でした(笑)」とにこやかに語っている。
共にヘビー級に転向し、天龍と組んでの阿修羅・原(WAR軍)との対戦も迫力が増して激しいものでした。藤波さんとのシングル対決は、ジュニア時代の1戦だけで、藤波の1勝。
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◆第3回MSGシリーズ
※全日本に参加したときに速い動きに驚きました。新日本に初参戦で、このタッグが実現したが、相手が猪木・藤波の強力コンビでした。正直言って、印象に残る活躍はありませんでした。ずいぶん後ですが、インディ団体で2vs1の変則タッグに2人組の方に登場しているのを見て驚きました。もちろん、ひとりの方が圧倒的に強く、負けていました(情報が薄くてすまん)
藤波さんとのシングルは1戦、藤波の1勝でした。
※ジュニアタイトルに挑戦するため来日。しかし、翌年の来日ではウエイトオーバーでタイトル戦をやってしまう。「両選手が承知したので、タイトル戦にします」という乱暴な説明に「?」と思いましたが、藤波の故郷・大分での初のタイトルマッチでした。この防衛を最後に、タイトルを返上しましたので、藤波さんの最後のジュニアタイトル戦の相手です。シングル戦績は3戦、藤波の3勝です。
※あのハルク・ホーガンとの初対戦がこの豪華(?)6人タッグマッチです。藤波さんが「アメリカで一緒にいたことがあって、プロレスラーになっていたのを見て驚きました。ミュージシャンだったんです」と印象を述べています。のちに、日本側の選手となって、猪木の技術を目の当たりにして成長。ついにIWGPの決勝戦を勝ち抜くほどになりました。
シングルでは、藤波さんは、一度も勝てませんでした。それどころか、豪快にアックスボンバーを受けてのフォール負けが多く、かえってすっきり、、しません。(怒) シングルは全9戦で、藤波さんの7敗2引き分け。マードック、マスクド・スーパースターや、ビガロ、ベイダーら、藤波さんの好敵手となった選手は少なくありませんが、ハンセンとこのホーガンは、最後まで猪木の試合相手でした。
※国際プロレスには素顔のリック・オリバーで来日。この新日の初来日ではマスクマンのゲシュタボで登場した。その後素顔のリック・オリバーでも来日している。藤波とのシングル戦績は、ゲシュタボで藤波の2勝、オリバーで藤波の1勝、あわせて、藤波の3勝となります。
※カルガリーのスチュ・ハートの息子兄弟のひとり。兄のキース・ハートと初来日した。
ブレッド・ハートとの藤波さんとのシングル対戦は、全3戦で藤波さんの3勝でした。
※ブレッド・ハートと共に来日。78年に初来日の時には藤波との対戦はなく、この度は藤波さんのジュニアタイトルにも挑戦した。ただ、タイトル戦の直前に藤波が手の指の負傷から変則的な試合となり、攻め込みながらも丸められて藤波に敗れた。残念ながら、期待されたほどの活躍は出来なかった。
◆ブラディファイト・シリーズ
※ラリーシャープの初来日は全日本でした。また国際にも来日し、若かったこともあり、それほど印象は残りませんでした。ただ、新日本では猪木とのシングル戦もあって、いわゆる中堅どころの選手でした。のちに「モンスター・ファクトリー」を始め、入れ墨怪獣「クラッシャー・バンバン・ビガロ」と共に来日したことで、「ファクトリー」の長として有名になりました。藤波さんとのシングル戦績は、1戦で1引き分けでした。
◆ブラディファイト・シリーズ
※オーンドーフというと、83年の前田の凱旋では数分でフォールされた、というイメージが強すぎますが、初来日の初戦が(上の試合)藤波戦でした。「鋼鉄男」という呼び名通り、藤波は攻めあぐね、ドラゴンはリングアウト負け。これは衝撃でした。そして、前田の凱旋試合も映像で確認すると、前田が技をしかける前にさりげなく合図?をするなど、試合を作っているように見えるんですが、如何? (笑) 前田がオーンドーフをつぶしてしまったことで「オーンドーフは、3年は持つと思ったんだがなあ」と新間氏に言わしめています。 名まえの響きから、どうも、温野菜ならぬ「温(おん)豆腐」、というイメージが、、、。失礼。そんなことより、藤波さんとのシングルの戦績を、調べますと、全⒉銭で、1勝1敗でした。
※このときが初来日です。後に全日本に参戦するときは、女性マネージャの「プレシャス」を帯同していますが、それはこの9年後のことです。初参戦のこのシリーズが盛り上がったんですが、ガービンは目立ちませんでした。のちにマイケルヘイズやテリーゴディとフリーバーズを結成して大活躍をしますね。藤波さんとのシングル戦はこの1戦だけで、藤波さんの1勝。
◆MSGタッグリーグ戦
※オックス・ベーカー怖い顔! この1行で終了しようと思いましたが、そうは行きません(笑) 国際プロレスの常連になって、当時の国際プロレスの乱発するデスマッチを淡々とこなした。ラッシャー木村との最初の金網デスマッチでは、椅子で滅多打ちにして木村の足を骨折させてしまった。なお、基本的に殴る・蹴る・反則攻撃に加えて、独特なダミ声でわめき、さらに、リングに「大きな肉のかたまり」を持ち込み、さらに場外に降りて「カぶりつく」パフォーマンスまでやっていました。
その凶暴なイメージのまま、新日本に初参戦したのですが、猪木との試合で「瞬殺」され、どうも実力を発揮できず、途中で帰国、これが最後の来日となりました。
なお、藤波さんとのシングルマッチは、組まれませんでした。
※この素顔の「ハングマン」は、正体ネイル・グアイの変身です。75年に覆面の「スーパーデストロイヤー」として来日したときは、藤波さんは、まだ若手でした。 次に「タワーリング・インフェルノ」として(藤波が海外遠征中のため、対戦無し)、さらに、覆面の「ハングマン」となって活躍。
人間絞首刑台というニックネームもつき、手には絞首刑用のロープを持ったマスクマンでした。
そして、この素顔の「ハングマン」となりました。まあ、素顔ですから「ネイル・グアイ」そのものですけど、(笑)アンドレのパートナーとして、このMSGタッグリーグに出場して活躍しました、なお、MSGタッグリーグですが、翌年はレネ・グレイがネイルグアイに代わってパートナーとなり、なんと、優勝まで行きました
なお、この素顔の「ハングマン」での、藤波のシングルは組まれなかった。
#140の「スーパーデストロイヤー」の項目の後半にも記したように、RSDは、この「ハングマン」の「ネイル・グアイ」と、次の「レネ・グレイ」をよく混同してしまうため、確認をしながら項目を作成しています。
この初対戦の6人タッグでは、アンドレと、新旧ふたりのパートナーがタッグを組んでいて、ますますこんらんしちゃう。(笑)
なぜ「ハングマン」というネームを使ったのかは、いろいろ推測がありそうですが、私は、次の説が可能性として正しいと考えています。
実は、80年当時、金曜日の夜8時からは「ワールドプロレスリング」中継、そして、続く夜9時からはドラマ「ザ・ハングマン」でした。 つまりこれは、素顔のネイル・グアイをわざわざ「ハングマン」にしたのは、「ドラマの宣伝」なんだと、思っています。(笑)
※国際プロレスに「レーン・ゴルト」で来日し、続いて新日本プロレスには「レネ・グレイ」で参戦しました。「レネ・グレイ」選手は、はケベック州(カナダ)から来たフランス系の選手で、アンドレのタッグパートナーとして最高でした。(つまり、翌81年のタッグリーグでは優勝に導く) それなりにすごい人なんですが(何というアバウトな書き方!)新日本の来日メンバーの中では見劣りしてしまいましたね。レネ・グレイと藤波のシングル戦は汲まれなかったもようです。
あの強すぎるアンドレがタッグリーグに参加するときに、パートナーはフランス語が話せてアンドレとコミュニケーションが取れることが必要です。そして、適度に「やられる」というのも大事ですね。 アンドレが国際プロレス時代には「カシモド」というパートナーがいました。その役を、新日本では「レネ・グレイ」が勤めました。この青森での6人タッグでは、アンドレと ネイルグアイ(80年パートナー「ハングマン」)・レネグレイ(81年パートナー)が6人タッグを組んでいて興味がわきます。
※平成から令和のファン(¥にとっては、「気合いだ~」おじさん(笑)ですが、もともとは、国際プロレスの救世主になりそうだったレスラー。海外遠征から凱旋帰国して、当時のエース悪党のジプシー・ジョーに真っ向勝負、玉砕。というキップの良い選手でした。猪木と1対3で対戦するというときも気合で試合に臨み、スロースターターのラッシャーを引っ張りました。長州と結託して、ジャパンプロレスで全日本に行ってからも、すがすがしい負けっぷりで、ジャンボ鶴田と一騎打ちして、玉砕。「負けたーっ!」とマイクで叫んで、見事でしたね。その後も、娘の「京子さん」の応援として、オリンピック会場でも有名になりました。
藤波さんとの関係で言えば、腰痛悪化で長期欠場した藤波さんが、ようやく復帰という時期にシングルであたり、浜口が勝利しました。「やったー」と喜び、リング上で、腰をおさえて立てない藤波さんに向かって、マイクで「気合いだ~~~!」とエールを送ってくれた場面が思い出されます。泣けたなあ(涙)
シングルマッチでは、全5戦で、藤波さんの3勝2敗です。
※「和製カーペンティア」と呼ばれる技巧派レスラー。ショルダースルーで投げられると、トンボを切って、スクッと立ち、観客を沸かせました。やがて、タイガーマスクや小林邦昭と、ジュニア戦線の中心に躍り出るのですが、このジュニア時代の藤波との 対戦は新日本と国際の「対抗戦」の一員でした。
後に、「はぐれ国際軍団」に入って、浜口やラッシャーのサポートに徹して、ハサミまで持ち出し、逆に猪木に髪の毛を切られたり、大変な時期もありました。その後、全日本でも長く活躍、そういえば、京都・醍醐ドームの試合で、あのデストロイヤーに勝ちそうになった試合を見ました。
レスラーの誰かが、「顔が反則じゃないか!」と失礼なことを言ってましたね。 (笑)
次は「1981年」に続きます。藤波さんの「ジュニアヘビー級」の最後の年です。
グレードアップした「改訂版」です。
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※写真の紹介がない選手がいますが、入手努力中です。
2023.1.19更新 リンク1.25更新