改訂版・新訂版・決定版
藤波さんは、こんなすごい選手たちと 闘ってきた!
★50年間、ドラゴンは、こんな選手と闘って来た~!!
1971-1972
藤波さんが闘って来たすごい選手
700人!
一気に紹介です。
■日本プロレス時代 1971(昭和46年)
※藤波さんのデビュー戦の相手で、入門時からの大先輩の北沢幹之選手。「新海弘勝」はこのときのリングネーム。たいてい本名で「北沢さん」と呼ぶ(リングネームでもありました)ことが多いです。
新日本プロレスになってからは「魁 勝司」(かい しょうじ)選手でした。 猪木の東京プロレスにも参加し、大変苦労したあと、日本プロレスに復帰。故郷・大分県にちなんだ「高崎山猿吉」(豊登命名)というリングネームも持つ。藤波の入門に際しても世話を焼いてくれた。
猪木とともに「新日本」に参加以降も、若手の指導にあたった。1981年に引退後も、レフェリーとしてUWFやリングスに参加。藤波との交流は続き、「ドラディション」でもレフェリーをしてもらうなど、もう、藤波さんの大恩人。足を向けて寝られない人。実は「最強説」もあるなど、ミステリアスな面も。
この試合が藤波のデビュー戦で、その前後については別項目でじっくりと。 デビュー戦であるこの対戦について言えば、ひとことでいうと「何もできなかった。記憶にない」ほど緊張していたそうです。
※藤波さんとのシングル対戦では、藤波の39戦6勝31敗2引き分けで、いずれも若手時代の対戦。
※藤波さんとは、日本プロレスの同期の桜。巡業中に二人で撮影した貴重な写真もあります。
・佐藤は馬場さんの付き人から全日本へゆき、猪木の付き人の藤波とは道を分かつも、つねに意識しあう心のライバルだったといいます。佐藤が馬場さんの頭を洗い、藤波が猪木の頭を洗うのが日常でしたが、たまに交代することもあり、藤波さんは「猪木さんの頭の輪郭を指が覚えています。馬場さんの頭も洗いましたよ」といいます。二人で、控室で、チャンピオンベルトを、巻いてみたこともあるとか。青春の1ページですね(笑)
ふたりは、日本では対抗する団体の所属でしたが、海外では一緒に闘うこともありました。
佐藤は、アジアタッグ王座に就いたり、渡米して「オリエンタルエキスプレス」など、WWFでも活躍し、「シンジャ(信者)」として来日もしました。が、その後、インディーの旗揚げはうまくいかなかったこともあるようです。佐藤昭雄と改名しています。。
・YOSEIさんより、コメントで新たな情報です。「佐藤さんは後に馬場さんの要請で全日本の現場監督になりましたね。鶴田さんが黒のタイツに黒のシューズになったのも佐藤さんのアイデアだそうです。なお、藤波さんが1988年にIWGP王者としてアメリカをサーキットした時も、コーディネーターとして藤波さんを支えました。」なるほど!貴重な情報、ありがとうございます。 2022.9.19更新 RSD
※藤波とのシングル対戦では、藤波の6戦6敗
※シンガポールからのプロレス留学生。兵役のために帰国後、新日本へも参加。
若手として藤波とともに、セコンドでも活躍していて、当時の写真ではイケメン二人を見間違うことも。 藤波とともにまじめにトレーニングしたが「藤波は強くなって、タケシは強くならなかった」(小鉄の話)そうである。
藤波との戦績は、藤波の8戦7勝1敗であるが、日本プロレス時代には藤波が勝てず、新日本時代になると、藤波が全勝(7勝)しています。
※力道山の次男で、いわゆる2世レスラーになります。藤波さんとは同期になるが、馬場さんの全日本に参加し、メキシコ遠征から凱旋して、実は、藤波より先に「トペ・スイシーダ」(いわゆる「ドラゴン・ロケット」ですね)を披露したともいわれています。 やがて、前座の「6時半の男」となり、全日本プロレスの重鎮に。「よ~するに」解説者にもなり、ノアでも活躍した。国内の試合数はかなり多い(調査中です) お兄さん(百田義浩氏)も、全日本のリングアナウンサーからレスラーになって兄弟タッグを組んだこともありました。
なお、長男の百田力(ちから)もプロレスラーとなって、なんと藤波さんと対戦もしています。
令和になって病気入院したが、「現役復帰を目指して」の親子での生活ぶりが時々ツイートされており、まことに微笑ましいです。
※藤波さんとのシングル対戦は、若手時代だけで、藤波の4戦4敗
※NETテレビの「ヤングプロレス」にも登場する若手のホープだったが、藤波さんとともに新日本プロレスの創設に参加。 海外遠征も藤波と一緒に西ドイツへ。当地のテレビ番組でヒンズースクワットを披露。アメリカにわたり、カールゴッチの指導を受ける。このときの藤波さんは、「とにかく日本語を話したいが、相手の木戸さんはおそろしく寡黙な人なんだよね~」と。 普段も寡黙で、マイペース。オーソドックスな技が多く、「いぶし銀」の異名を持つ。後にUWFのリーグ戦で優勝。関節ということで比較される藤原とは、お互いに意識し合って、いい関係を作っていたという。 のちに、藤波の国内3000試合記念試合の相手もつとめました。得意技は脇固め他、各種関節技のほか、キドクラッチ。2001年11月の引退試合に藤波もタッグマッチで対戦。
※藤波さんとのシングル対戦は、藤波の6勝17敗。
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※藤波さんの「日本プロレス」時代の対戦相手は、上記5人です。
■新日本プロレス 1972(昭和47年)
ちょっと、ひとこと解説です。
※この「失われた幻の最初の1年間」については、
シリーズ名ごとに分類しての「小項目」も挿入しています。
(来年からは原則として、ありません)
◆旗揚げオープニングシリーズ第1弾
※アルゼンチン出身というが、藤波と「旗揚げ第1戦の第1試合」を行ったということのみで記憶される選手ですね。「本当にレスラーだったの?」と長い間いわれていました。「ロッキー・ロマノ」選手だよ、と教えてもらいましたが、それって、誰?状態(笑) 藤波さんにとって、「旗揚げ第1戦の第1試合」しかも、初の外人との対戦でプレッシャーも大きかっだったそうですが、「そんなことも言っていられない」状況だったそうです。。「自分の試合より、お客さんが入ってよかったなあ」と。
令和になって、当時の写真なども公開されて、嬉しいですけど、試合については、当時の記事の
「強烈なカウンターキックで藤波がフォールされた」とあるに尽きます。ですから、得意技はキック?
・藤波さんとの対戦はこの1戦のみ。藤波の1敗
・※この藤波さんとの試合が、浜田のデビュー戦でした。藤波は、デビュー18試合めで、ようやく初白星を挙げました。藤波さんが初めて勝った選手が浜田というわけですね。このオープニングシリーズでは連日の対戦となって、ほぼ藤波が勝利しました。浜田は、リトル浜田からグラン浜田に改名し、メキシコの英雄となって向こうの人になります。
旗揚げ間近の新日本の事務所を初めて訪ねたたときに、車に乗っていったところ小鉄に目をつけられて、「運転手も兼ねて」の入門だったといわれていますから、人生どうなるかわかりませんねえ。
浜田は、全日本・新日本・UWF・女子のリング・ユニバーサル・みちのく、と多団体を流れ歩き、軽量級のアクロバチックなレスリングで楽しませてくれました。後の「無我ワールド」や「ドラディション」のシリーズにも参加し、懐かしい藤波とのシングル対戦もありました。「組んだ瞬間、あ、ダメだ、と思いました。ひさしぶりの藤波さんは巨大だった」(2007・グラン浜田) そりゃあ、藤波さんは「ヘビー級」になりましたからね。
シングル対戦では、藤波の67戦59勝1敗7引き分け(2007年の「無我ワールド」での1勝も含む)
※この顔にピンときたら、、、というわけで(笑) 関川はのちの、ミスターセキ、そしてミスター・ポーゴ、ポーゴ大王となるあのデスマッチのポーゴですね。
関川青年は、群馬県から新日本に入門するため、浜田の運転する車で来たそうです。ただ、この藤波とのデビュー戦をつとめたあと、新日本プロレスから逃亡したという過去があるそうです。確かに、当時のバトルロイヤルでの写真などを見ても、関川は標的にされやすい性格だったようです。一緒に門をたたいた浜田が初期の新日本若手の一員として活躍するのとは、対照的ですね。
なお、藤波さんとのシングル対戦はこの1戦のみで、のちにミスター・ポーゴとして新日本に参戦したときには、ナガサキとのコンビでのタッグ戦のみでした。かなり「びびりながら」猪木と対戦する姿を見ていると、のちに、埼玉県?の「秘密工場」で鎖鎌に改良(改悪?)を加えた「特製凶器」を作り電流爆破マッチや各種デスマッチで大活躍する「ビッグ・ファイヤー」で火を噴く「ミスター・ポーゴ」に変身するには、もう少し時間がかかりました。 自身の自伝的な著書で「懺悔録」と言っておきながら、読者に、「俺様が引退するなんて、1万光年早いわ!」と毒づいていましたね。(光年は、距離の単位です)
◆旗揚げオープニングシリーズ第2弾
※アメリカのノースカロライナ州のシャーロッテ地区が主戦場の選手で、胸と腕の入れ墨がトレードマークであったといいます。シリーズでは木戸や魁には勝っているが、豊登には歯が立たなかった様子です。
・藤波との対戦はこの1戦のみ。藤波の1敗。
◆旗揚げオープニングシリーズ第3弾
※アメリカ・テキサス州出身で、弟も、また夫人もプロレスラーという「プロレス一家」の主であったといわれています。
・藤波さんとの対戦成績は、藤波の2戦、2敗。
※このシリーズのエース格?として来日したはずなのに、藤波さんに敗れている。まさに、「やっちまった」選手。藤波の外人選手からの初勝利となった。MSGにも出場しているというが、、。後日、この選手のことを聞かれて藤波さんは「当時の僕に負けているなんて、きっと、どうしようもない選手では?」と謙遜していますが、、、。
・藤波との対戦はこの1試合だけなので、藤波の1勝。
※兄のジム・グラブマイヤーと共に来日。シリーズの2日めには兄と組んで、猪木・木戸組と対戦。このファーが猪木のコブラで負けています。なお、兄は藤波との対戦はありませんでした。
・藤波との対戦はこの試合だけなので、藤波の1勝。
◆ニュー・サマーシリーズ
※この試合が、木原のデビュー戦だった。木原は前シリーズで練習生として参加し、この日デビューとなった。佐世保市出身の22歳。怪力型とあります。
藤波との戦績は、藤波の12戦12勝。
木原は、この年の年末には退団してしまう。
※コーア・チキは、ハワイ・ホノルル出身で、実は、あの流血大王、キラートーア・カマタの実の弟だったということです。雑誌などでは、このシリーズに特別参加した「ハロルド坂田」選手とともに紹介され、何度もメインに起用されるなど、関係者からは期待もされたようですが、豊登、小鉄、柴田らに敗れるなど、期待には応えられなかったようです。この時が最初で最後の来日となりました。
・藤波との対戦は、この試合だけなので、藤波の1敗。
※「ブラック・ハリケーンズ」としてエニー・ラスターと共に来日。メインでの登場もあったが、藤波さんとの対戦はこのひと試合だけ。のちに、ポークチョップ・チョイスと改名して活躍しました。
※情報をいただきました。「ボビー・キャッシュは、泉佐野?のテント会場で観ましたが、いい選手でしたよ」(エコ・ケーンさんより)ありがとうございます。
◆ニュー・ゴールデン・シリーズ
※ジョン・フォーリーの名まえで「国際プロレス」に参加した。他の選手が知らないなまえばかりの中で、まるで友人に会った気分。(笑) ビリー・ライレージムの出身で流れるようなテクニックが抜群。「国際」での試合がテレビ中継されて、きれいな試合をするフォーリーにアナウンサーが感激?して「行け~!ジョン・フォーリー!」と叫んだのが、印象的です(新日本に参加時でなくてすまん)
ミック博士によると 「後にカルガリーでのコーチ役となって、あのダイナマイトキッドを育てた」とも。アゼルバイジャン(当時はソ連)のバクー市の出身。(国際プロレスのパンフには、リバプール出身。とありますけんど)ドイツ、フランスをはじめ、南米にも遠征した。 いつも困ったような顔が特徴的?
・藤波さんとの戦績は、藤波の2戦2敗。
※この藤波との対戦が、佐藤のデビュー戦。しかも藤波とはこの1戦のみであった。パンフレットによると、大阪は枚方市出身、この月の30日で25歳になる。関西大学のレスリングから入門なので、即戦力にと、あてにされたようです。得意技は「股裂き」と「アマレス流飛行機投げ」(凄そう!どんな技?)とあります。
・ただ、この佐藤もこの年の年末で退団してしまう。
※ポーツマス出身のポーランド系イギリス人。国際プロレスにも来日していたが、インパクトのある名まえ(なんたって、コワルスキー!)以外は、あまり印象にない選手です。レスラーになる前は、喧嘩に明け暮れていたという伝説もあるそうですが。
・藤波さんは、6戦して、2勝4敗。ちょうどこの秋のシリーズの頃から、藤波さんが、けっこう外人選手からも勝利を挙げ始めていた時期に当たります。、
※ケニア出身。ケニアの部族のプリンスであって、12歳の時に「ライオンと闘って勝った」というふれこみだったが、はたして、、、。国際プロレスに参加していて、再来日になるそうです。う~ん、印象にないんです。。
・藤波さんとの対戦は上の試合のみ。ですので、藤波の1敗。
※この荒川のデビュー戦の相手を藤波がつとめた。荒川真・ドン荒川となり、「ストロングスタイル」の新日本の中で、「元祖ひょうきんプロレス」という独特のスタイルを築く。猪木が荒川の試合を通路奥で感心して見ていたという話もある。テレビのバラエティにも出演し、勝新スタイルの見事な「座頭市」を披露しました。のちにタイトル戦線にも食い込んで後楽園ホールを熱狂させたことも。
引退試合後、SWSへゆき、長くSWS所属を表明していた。新日本プロレスのOBたちの話によれば、たいていの揉め事の裏には荒川が見え隠れしているとも。
・藤波との戦績は、藤波の16勝1敗。
※若手時代、メインイベントに登場する猪木の後ろで、付き人として以上に映っているのが栗栖。猪木の初期の名勝負の時はセコンドとしてかなり目立っていた。
もちろん、のちに「イス大王」となる栗栖。ジャパンプロレスやFMWなど、多団体で活躍する。 全日本への参戦時「世界チャンピオンとも闘ったし、もう思い残すことはない」と語る。
藤波とは90年代に、キムドク、タイガー・シン、ビガロなどと組んだイス大王とのタッグ対戦がある。
入門時、先輩たちが「道場に「クリス」という外人が入門する」と、あせったというエピソードも楽しい。
・藤波はこの対戦を端緒に、20戦20勝。
◆ニュー・ダイヤモンドシリーズ
※藤原組長のデビュー戦を藤波がつとめた。関節技の鬼として脚光を浴びる前、札幌中島で長州を襲撃、試合中止にして、藤波さんの「こんな会社、辞めてやる!」の原因を作った人(笑) 一本足頭突きで闘う「辻斬り喜明」 UWFから、藤原組組長、と大活躍をしますが、若手時代の対戦成績は、藤波の44勝2引き分けと圧倒的に藤波がリードしている。 また、その後も、藤波のメモリアル的な試合には、よく関係している。その後の対戦成績は、現在楽しく、調査・集計中。
実力者として知られ、猪木の用心棒として行動を共にし、「ダンスパーティーには藤波を、危ないとこには藤原を」というんだと、まことしやかに語られていた。
※アメリカはインディアナ州(オハイオ州説もあり)出身。グレートマレンコとのチェーンマッチの経験があるというが、未詳です。得意技はクロー攻撃。
藤波さんとの対戦は、藤波の3戦3敗。
※ベネズェラ出身、「怪力・ドン」と呼ばれ、自慢の怪力「ベアハッグ」で大きなドラム缶をへこませるとありますから、藤波さんも苦しめられたか?
シングル戦績は、藤波さんの2戦2敗です。
・リングネームやキャラクターを変更した選手について。
リングネーム変更で、
覆面・ペイントなど、キャラクターを変更した選手は「別選手」として
リングネームのみの変更は「同一選手」として扱い
それぞれ、最初に藤波さんと対戦した時期に登録・紹介
・写真は、原則として、紹介する時期(最初に藤波さんと対戦した時期)のものを
使用。 パンフレット、ポスター、チケットなど。 RSD撮影の写真や、一部、
当時の雑誌・新聞、VTR画面から、などから。また、ネット上から借用のものもあります
(もし問題があれば、すぐに削除いたします)
例 エルサント アベンジャー ハンリー
マスクドスーパースター ビリークラッシャー アックスデモリッション
次は 2「新日本プロレス1973-1975年」へつづきます。ビッシビシ続きます。。