白馬八方尾根スキー場に練習に来たときには、いつも同じ民宿に泊まります。今シーズンはずっと来れなかったのですが、その間にその常宿のおばあちゃんが亡くなってしまいました。享年81歳。来たときにはいつもあれこれと話をし、年甲斐もなくモーグルに打ち込んでいるぼくのことを心配してくれてもいたおばあちゃんでした。

 

 実名を出すのもどうかと思うのですが、宿の奥さんに聞いてみたら、「いいですよ、顔出しもOK」ということでした。民宿は白馬五竜の近くにある「うめのや」です。ぼくは五竜に滑りに来たときに観光案内所の紹介でたまたま泊まって、その後、八方で練習するようになってからもずっとここに泊まっています。

 

 おばあちゃんは平昌オンリピックが終わった直後の2月23日に亡くなりました。前の日まで元気でごく普通にしていたのに、朝、起きてこないなあと思ったら布団の中で苦しむこともなく静かに亡くなっていたそうです。若すぎますが、大往生と言っていいのかもしれません。

 

 昨日、今シーズン初めて白馬に来て、夕方、宿に入ると、奥の間に案内してもらって、おばあちゃんの遺影に線香を上げさせてもらいました。遺影は今年2月、ノルディック複合のワールドカップ白馬大会で渡部暁斗選手が優勝したときに宿で撮ったツーショット写真を使っています。ご満悦の表情のおばあちゃんの遺影を前に、足がしびれて立てなくなるところまで、奥さんと思い出話をしました。

 

 ぼくにとって思い出深いのは、夜中に雪がたくさん降って、朝、宿を出てゲレンデに行こうとしたら、庭に止めていた車がスタックして動かなくなったときのことです。お孫さんに手伝ってもらったりしながらぼくが悪戦苦闘していると、自分の部屋にいたおばあちゃんが窓を開けて「ハンドルを切らずにバックしろ」とか、大声でいろいろと指示を飛ばします。おじいちゃんにトラクターで引っ張ってもらって、やっとこさのことで脱出して、やれやれこれでスキーに行けると思ったら、おばあちゃんがぼくに向かって「もう、けえれ(帰れ)」。「ええッ、そんなあ」とけげんな顔をするぼくに「だっておめえ、今はトラクターで引っ張ったからええが、スキー場でこんなことになったらどうすんだ」。確かにおっしゃる通り。「もうこんな日は来るんじゃねえぞ」と言われて、すごすごと、雪はたっぷりあるのに全くスキーをせずに帰路についたのでした。

 

 ぼくが八方尾根で一人でエア台を作って練習していると知ると、「昔はみんな子供がジャンプ台を作ったんだ。今はコーチや大人が作っとる。うちの子(平昌五輪までノルディック・ジャンプ全日本のヘッドコーチ)だって、『今日も雪が降ってジャンプ台作った』『また今日も雪が降ってジャンプ台作った』と言って、毎日ジャンプ台を作っていた」という話をしてくれました。ぼくが自分でエア台を作って練習しているのを「白馬村のもんはみんな知っとる」と言って、一人寂しく練習しているぼくを励ましてくれてもいました。

 

 練習を終えて帰るときには、自分が育てた野菜をどっさりとくれて、5時間の長道中で帰ると知ると、「疲れてっから気いつけて帰れよ。うちで布団敷いて寝てからけえれ」とまで言って、ぼくの帰宅をいつも心配してくれていました。

 

 昨シーズン、ぼくがお金を節約するために、最初の日だけは車中泊をすると言うと、「うちの食堂で寝ろ。床暖房が入ってっから寒くねえぞ。前はみんなそうしてたんだ。かまわねえから、そうしろ」と言ってくれて、結局、奥さんの計らいもあって、畳の部屋で寝袋で寝させてもらいました。

 

 たまに一緒に泊まった妻は、おばあちゃんのぼくに対する態度が「かわいい息子に接するときのようだ」と言っていました。四十九日は終わったそうですが、なんだかぽっかり穴が開いたようです。朝、食堂のカウンターからおばあちゃんが顔を出して「佐々木さん、いらっしゃい」とほほ笑みかけてくれるような気がするのです。