富士通スタジアム川崎 | Stadiums and Arenas

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スポーツ観戦が趣味の筆者が、これまで訪れたスタジアム・アリーナの印象を綴るブログです。

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富士通スタジアム川崎/川崎冨士見球技場
開場2001年(前身の川崎球場は1951年開場)
集客可能人数6000人
アクセス教育文化会館前および労働会館バス停(川崎市バス川04、05、07、10、13、
15系統、臨港バス川02・03系統)から徒歩約5分
京急川崎駅(京急大師線)及び川崎駅(JR東海道線・京浜東北線・南武線)より
徒歩約15分

(写真は全て、2017年5月4日のアメフト東日本社会人選手権の試合から)

スタジアム外観

近年、関東アメフト界の中心地となりつつある球技場。全面人工芝で、ヤードライン、アメフト用の掲示板などが常備されている日本でも数少ないスタジアムである。

前身は、1951年に開場した川崎球場。川崎市は、京浜工業地帯の労働者や経営者に野球愛好家が多かったことから、戦後間もないころから社会人野球が盛んであり、彼等がプレーする会場を提供するという意味で開場した。開場後まもなくプロ野球の興業も行われ始め、1954年に高橋ユニオンズの本拠地となった。2年後に高橋は移転したが、1955年には大洋ホエールズ(現在のDeNA横浜ベイスターズがこの球場を本拠地とし、1年間だけ川崎球場に2チームが併存する形がとられた。

1960年には、前年度セ・リーグ最下位だった大洋が、名将三原修の下、近藤昭仁、鈴木武、秋山登、島田源太郎らを擁し、下剋上での優勝を果たし、その勢いのままに日本シリーズも制した。川崎球場のテナント球団が日本一に輝いたのは、この年が最初で最後である。

野球のオールドファンに川崎球場についてのイメージを聞くと、大抵の人が「狭い、汚い、客がいない」という散々な返答を返してくるのではないかと思われる。公式には両翼90メートル、中堅120メートルだったが、実測では両翼89メートル、中堅118メートルだったらしく、ホームランの出やすい狭い球場として知られていた。ナイターはあったものの、開場当時は周囲の工場に電力を供給しなければいけなかったため、特に1960年代ぐらいまでは試合中に突然電気が落ちて試合ができなくなることもあったとか。また、敷地のライト側に道路が通っていたことからこちら側の客席がとても狭かったとのこと。観客動員も伸び悩み、業を煮やした大洋は1977年に横浜に移転してしまう。

1978年から、それと入れ替わるようにロッテオリオンズが川崎に移転。ロッテは高橋ユニオンズの後継球団なので、一応帰還という形になるのかもしれないが、川崎球場のイメージはそれ以後もあまり変わらなかった。むしろ、設備を交換する余裕がなかったためロッテが戻ってきた頃には老朽化が著しく、ロッカールームなどもジメジメしており、バットを球場に忘れてしまうと一晩で湿気を吸って随分と重くなってしまうこともあったとのこと。お客さんの入りも悪く、外野席は常にガラガラ。当時の珍プレー好プレーでは外野席で麻雀や流しそうめんをしたり、レフトからライトまで走り切る子供達の姿が流されることが恒例だった。そして、そのような状況にもかかわらず川崎市やロッテが改善策をとらなかったことから、両者は「無気力」のレッテルを貼られることが多かった。

ただ、1988年10月19日に川崎球場で行われたロッテと近鉄バファローズのダブルヘッダーは、「10.19」として球界史に残る名勝負として今も語り継がれている。西武ライオンズとパ・リーグの優勝争いを繰り広げる近鉄が、このダブルヘッダーを連勝すれば優勝、できなければ西武が優勝という状況で、1試合目を落としたロッテが2試合目で意地を見せて引き分けに持ち込み、近鉄の胴上げを阻止したという出来事である。

このときばかりは川崎球場が満員になり、劣悪な設備が世間に晒され、ようやく川崎市側も改善に動き出した。だが、この頃にはすでにロッテが千葉への移転へと動いており、1992年にそれが実現。プロ野球球団本拠地としての役割を終えることになったのである。

ロッテの移転後は社会人野球や高校野球、それにプロ野球の巡業の会場として使われ、この時期からアメフトの試合も主催するようになっている。だが、1990年代後半には耐震性に不備があることが明らかになって2000年に解体が決定。解体前に行われた記念の「引退試合」には21000人ものお客さんが詰めかけた。

2000年に解体工事が始まったが、一度に壊すのではなくスタンドを順次撤去するという形で進められたので、工事中もアメフトの試合が行われた。そして、内外野の座席をすべて撤去した後に一三塁側に仮設のスタンドを入れ、以前よりも規模が縮小された2100人収容のスタジアムとして2001年に再オープン。一般的にはこの時期が現在のスタジアムの開場年度として認識されている(ただし、この時期まだ名称は川崎球場のままだった)。

当時はまだ軟式野球ができただけでなく、またプロサッカーチームの川崎フロンターレがここでサッカースクールなどを行っていたため、サッカーの会場としても使用されていた。だが、2004年に人工芝に張り替えられ、2007年にはアメフトのワールドカップの会場にもなったことから、徐々にアメフト会場としての認知度が高くなっていく。

2010年代に入ると完全に球技専用にするという方針が固められ、それまで球場型(扇型)に設置されていた仮設スタンドを撤去。2013年にメインスタンド側に、14年にバックスタンド側に、タッチラインに平行な形のスタンドが設置された。2014年に川崎球場から川崎富士見球技場に改称され、2015年には川崎市をベースにする大企業である富士通がネーミングライツを買い取り、富士通スタジアム川崎の公称が付けられた。野球場から球技場へと、日本のスポーツ施設の中でも例を見ないほど数奇な運命をたどったスタジアムである。現在は、西側のゴール裏に球場時代のバックネットが、東側のゴール裏には外野フェンスの骨格が残っていて、川崎球場時代の名残を感じさせる。




上:西側ゴール。ゴール裏に半円があり、球場時代はここにホームベースがあった。
下:東側ゴール。ゴール裏に、球場時代の外野フェンスの骨格が残っている。

現在のスタジアムのアメフト観戦環境は良好である。日本ではアメフトを野球場でやることが多いが、このスポーツは球技場の方が断然見やすい。さらにはこのスタジアム、スタンドの位置はピッチからそれほど高くないので、他の球技場と比べても試合が見やすかった。また、アメフトは試合の進行上審判やアナウンサーが色々とアナウンスをしなければならないのだが、スピーカーの音が聞きやすかった上に、マイクが不調になることもなかった。この辺がしっかりしている会場はアメフトの試合がぐっと見やすくなる。

ケチをつけるとすれば、屋外ベニューのほとんどがそうであるとは言え、屋根が全くないので、雨が降ったり日差しが強いときついこと。日差しを避けたければ、南側のスタンドの後ろの方に座ればスタンドが影を作ってくれるので、そこに座るといいだろう。

あと、アメフト用の掲示板があるとは言え、かなり簡易的なもので少し見づらい上に、プレイクロックが常設されていない。さらには、西側のゴール裏ネットの高さが低く、ゴールキックを蹴るたびにボールが敷地外に飛び出し、スタッフがボールを取りに行っていた。日本のアメフト会場の中では屈指の環境を提供しているスタジアムではあるが、まだもう少しインフラに改善の余地があるかもしれない。


掲示板。時間、スコア、タイムアウト、ダウンカウンター、現在のヤード、残りヤードが掲示されるが、正直少し数字が見にくかった。また、掲示板の下に即席のプレイクロックが置かれていることから解る通り、プレイクロックは常設されていない

ちなみにこのスタジアム、2015年までは株式会社川崎球場という運営法人が管理していたが、現在は川崎市の指定管理者として川崎フロンターレと東急コミュニティーが管理運営している。競技場だけでなく、隣接する広場やコミュニティーホール、そして草野球用の富士見球場がある(平日は隣接する富士見中学校の校庭として使用される)。また、運営的には関係ないが川崎競輪場が隣接しており、歩いて5分ぐらいのところには川崎競馬場もある。




上:富士見球場(兼富士見中学校校庭)
下:川崎競輪場

最寄駅は京急本線・大師線が止まる京急川崎駅かJR東海道線・京浜東北線・南武線が止まる川崎駅で、ここから歩いて15分ほど。最寄駅からの距離が少しあるが、最寄駅自体はアクセスがいいので、不便というほど交通の便は悪くないだろう。スタジアムまでの道には商店街もあり、試合前後の食事にも全く苦労しない。

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