ことしのはじめ
画家の二宮敏泰さんに「今年ははらんさんの年になる」
と言われ
まさかそんな、と思っていたが
本当にあらゆる運が向いていた年となった。
こんな年も人にはある。
もちろん40年も生きていれば、これが人生最大の強運の年であったことがよく分かるし
だからと言って、今までの努力ももちろん必要だったとわかるし
でも、来年からはもっと気を引き締めなければ、強運は引き潮のように引いてしまうことも知っている。
その二宮さんに身の程もわきまえず
作品をグッズ化したい!とお願いしコラボさせていただいた。
震災直後の3月に開催された「wazawaza202号室のウサギ展」
売り上げの一部を寄付させていただけた。
そしてこの展示では「告知デザインの重要性」をとても感じた。
友人があまり多いとはいえない私は、この展示に友人が呼べないことが非常に心配であったのだが
通りすがりの人が、ポスターを見てたくさん訪れてくださったのだ。
デザインの重要性というのは、ただ、伝えるだけでなく
ただ、魅せるだけでなく、誘う、と言うことが大切なのだと改めて思った。
「そこに面白い世界がありますよ、あなたも行ってみない?」
と、誘いかけるような。
7月には、宮川園さんの「別府龍宮」
宮川さんの絵を描かせていただいた。
そして、プロの作家有志による電子書籍「文芸あねもね」のデザイン。
恐るべき光栄なことである。
とにかく、思ったことを「形にする」と言うことができるひとって
ものすごいパワーで動くんだな、と言うことを実感した。
「何かをしたい」と言う人はたくさんいるし、才能や技術をたくさん持った人はいるんだけれど
それをきちんと形にできる、と言うのもまた才能なのだ。
その、実現力はあまり重要視されていないけれど、本当は一番大切なものかもしれない。
その合間に、学校のPTAなどもさせていただいた。
ま、ぶっちゃけやりたいからやっているわけでもなく、
5年間避けまくっていたからやらされているのだか、
やるからには、ちょっと何か変わるといいな、と思っていた。
ま、楽しくないことは無い。
普段話さないようなタイプの人と話せるのはとても面白いし
おかげさまで、いわゆる「お母さんトラブル」のようなものも無い。
が、
なんというか、やはり学校は「負」のオーラが満ちている。
1年生のときから感じていたが、いまやほとんどのお母さんがキャリアがあって
充分大人だというのに、どうして学校にいるときには「女子」になってしまうんだろう?
学校に一歩立ち入れば、誰か知っている人がいないかと
おどおどきょろきょろ、知り合いを見つけたら、一気にピーチクパーチク(古い表現)
おしゃべりはかまわないんだけれど、学校のオカンたちは以上に声がでかい。
仕事で何かの会合があったときなど、こんなしゃべり方をする女性はほとんどみない。
彼女たちは仕事の時には一人でもまったく平気なのに、本当に不思議。
結局、この「ママっぷり」がいまだに私に引っかかっているところである。
色々考えたのだが「恐れ」が原因なのかな?
と思う。
「参加しなさい」も「みんな仲良く」もどこかに恐れがある言葉に見えてくる。
「参加」と「仲良く」は、
私にとって大きな意味を持つものでは無かった。
意味があるとすれば
そこに多くの人々の「恐れ」を見たことかもしれない。
学校と言う中では、よくも分からない「一人でいてはいけない」と言うような
意味不明の「恐れ」があったような気がする。
仕事をするようになったら、それよりももっと大切なことがあるので「恐れ」は無くなった。
しかしまた、学校に行くことで戻ってくるものなのか?とも思う。
これは、母親たちにとどまらず、実は子どもに伝えたいことでもある。
むしろ、いまさら変わらないオカンたちなどどうでもよい。
学校で「きちんと大人しているオトナ」を見せることで
あ、別に何でもかんでも人の顔色伺わなくていいんだ、と思ってくれる子どもがいたらな
と思う。
このことは、私自身のテーマにもなった。
大人も子供も、人の顔色を伺わず、自立する。
後半は、PCのトラブルに悩まされたり
いろんなことに、誘われるがままに参加してきた
ただ、かかわる人が増えてくるうちに、私がやりたいこと、というものが
他者の意図が介在してくるようになり、軸がぶれるのではないか?
と言う思いが大きくなってきた。
やっぱり、物を作ることって、人とかかわることより、
自分の中で熟成させる時間が多くなければいけない。
お友達をたくさん作って、しょっちゅう「なにかやろう」と言う話ばかりして
結局何もできていない人もたくさんいるではないか。
それはやはり、学校のお母さんや子どもたちと同じで
常に周囲の目を気にして、友達の意見や都合に同調すること。
それが、私にとって必要なことでやるべきことだろうか?
ただ、派手なものは世の中に溢れている。
たぶん、それは私がやることではないのだ。
表現は「言いたいこと」があるから「表現」である。
大勢の中で壁の花になってもいいのだ、それがきちんと主張ある花ならば。
私が作るものには、そんな思いがこめられています。