安っぽい楽山2
「信じよう!」と決意するとき
2013年03月03日 楽山日記(LD)
http://mn266z.blog.jp/archives/17512118.html
古い記事ですが、今も昔も、楽山は、信仰でも何でも、分かっているふうな口をききます。実際には、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の楽山は、何も分かっていないことが明らかになっています。信仰は、雰囲気のように、いい加減なのが本物と言いたいようです。全然違います
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信仰には、およそ二種類ある。「信じよう」という意識のない信仰と、「信じよう」という意識に支えられている信仰である。
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「信じようという意識のない信仰」は、大方、文化や習慣の一部でしかありません。「信じようという意識に支えられている信仰」は、意識というより、強迫観念のように、人を縛る可能性があるでしょう。なお、楽山のように、自己愛と自己中が、訂正不能にあるのは、信仰ではなく病理です。
本当の信仰は、気づきであり、惹かれることであり、縁を感じることであり、ゆえに、信じないではいられないものです。楽山は、信仰を全然知らないので、薄っぺらな先入観から、口から出まかせを言って、もっともらしく見せているだけです。自分が魅力の欠片もないからでしょう。
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はっきりいって、前者の信仰は安定しているが、後者の信仰は危ういところがある。意識的に、「信じよう!」と決意するということは、そうしないではいられないほどに、信仰が揺らいでいるということだから。
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信仰を、反応か状態のように、安定などという言葉で表現している楽山は、信仰の賜物を何も知らない人です。このように、心の無い者は、信仰という抽象名詞の内実について、何も語れないのですが、楽山の自己愛性人格障害は、言葉を繕って、語ったことにするのです。
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乾いた砂が、手からこぼれ落ちるように、信仰心が心からこぼれ落ちようとしているからこそ、「何があっても、信仰は失わないぞ!」「この信仰の綱は、絶対に放さない!」などと強く決意しなければならなくなっているのだ。
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信仰心が、心の無い楽山にはありません。「何があっても、失わないぞ!」などは大根役者の三文芝居です。信仰には、その初めに、不思議なくらい、縁(えん、えにし)のような出会いがあります。そして、生きる縁(よすが)となってゆくのです。知らないくせに書いてくる楽山は醜いです。
なお、「絶対に放さない!」などと豪語する硬い思い込みの強迫性は、一種の精神病理であって、信仰とは何の関係もありません。信仰は、本来、自発的に生じるものであり、強迫観念ではありません。信仰は、人が「絶対」でないことを知って、共感の主イエスキリストの同伴を願うことです。
楽山は、知ったかぶりをして、信仰が、こぼれ落ちる、などと言っていますが、真の信仰は、こぼれ落ちることはなく、ふつうなら絶望的な状況でも、尽きない希望となるものです。反キリストは、そのような希望を持ったことがないから、持ち物のように語り、自身の欲望芝居を演じているに過ぎません。
信仰は、絆(きずな)か縁(えにし、よすが、えん)のようなものであり、究極的には喩えようのないものです。楽山は、知らないものだから、物品のように扱って、語ったつもりになるのです。「失わないぞ!」「放さない!」・・無知と無恥の戯言です。底冷えのする楽山の捏造概念です。
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「わたしは、エル・カンターレを信じる! この信仰を守りぬく!」と決意し、自らを奮い立たせないではいられない信者には、この事実に気づいてほしいと思う。
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「自らを奮い立たせないではいられない」ような信仰の賜物を、楽山は知りもしないで、十把一絡げに、邪悪に気づけと言っています。気づくべきは、楽山の卑怯さと、無反省、無責任な言葉です。何も信じない自分信仰の、おぞましさだけの楽山の発言です。
何も気づかない自己愛性人格障害の楽山が、「気づいてほしい」などと言うのは、おこがましいことです。恐ろしく鈍感で、冷酷で、いい加減な楽山が、偉そうに忠告してくるのだから、"お前に言われる筋合いはない" という言葉でも貼りつけて、関わらないでください。
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そうすれば、きっと、「信仰するぞ!」と気張る信仰ではなく、もっと自然で、ゆったりした信仰を得られるはず。
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「自然で、ゆったりした信仰」と楽山が言っているのは、反キリストの楽山自身のように、何も本気では信じないことを意味しているに過ぎません。反キリストの楽山は、宗教に怨念を燃やしているだけで、信仰者や求道者をペテンの手練手管で騙そうとしているだけです。
信仰は、「信仰するぞ!」ではなく、離れられない縁のようなものです。そこに在るのは、楽山の詭弁と嘘の誘導や印象操作ではなく、温もりと潤いに満ちた共感であります。言葉では表せない共感に似たようなもので、楽山には一切ないものなのです。
人の気持ちが分からない、人の気持ちを察して、自分をコントロールできない楽山の言うことを真に受けないでください。楽山は、自己愛の慢心から、かっこつけて、忠告めいたことを言って、役に立つ助言者の自分という満悦を求めているだけなのです。
朱に交われば紅くなる?
(『ブッダの真理のことば 感興のことば』)
2013年03月03日 楽山日記(LD)
http://mn266z.blog.jp/archives/17512119.html
楽山に交われば、詭弁と嘘のために、臭くなります。
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「
劣った卑しい者になじむ人は堕落してしまう。しかし等しい者につき合う人は実に堕落することはないであろう。すぐれた者に近づく人はすぐれた状態に達する。それ故にこの世では自分よりもすぐれた人とつき合え。
[省略]
一一 どのような友をつくろうとも、どのような人につき合おうとも、やがて人はその友のような人になる。人とともにつき合うというのは、そのようなことなのである。
(『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳)
」
これは、「感興のことば 第25章 友」で見つけた言葉です。
若い頃は、朱に交われば紅くなると説教されると、反発を感じたものでした。けれどもこの年になってみると、これには一理あると認めざるを得ないという心境になりました。
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楽山が、「反発を感じ」るのは自己愛からでしょう。今「一理ある」と思うのは、今、多くの人を、自分の欲望に沿うように染めたい教祖願望から、騙しているからでしょう。楽山に交われば黒くなり、臭くなります。楽山の、嘘くささと詭弁くささに、染まらないようにしてください。
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また、これは友だけでなく、書物や宗教に関しても言えそうです。たとえばこんな風に。
・悪書を読み耽る者は堕落する。しかし良書に親しむ者はすぐれた状態に達する。
・邪教に近付く者は我が身を亡ぼす。しかし正しき信仰を得るものは正しき者となる。
人に限らず、書物でも、宗教でも、何に近付き、何を遠ざけるかということは、とても大事なことなのだと思います。
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楽山自身に染まれば客観的になり正しくなる、とでも言いたいのでしょうか。楽山は、本を悪書に、思考を邪教に染めて、堕落し続けています。楽山は、同じようなことを繰り返しています。楽山は、自己中の自己愛性人格障害なので、客観性から最も遠い人です。
楽山の、自分に近づき、他を遠ざけよ・・とでも言うような誘い文句に惑わされないでください。楽山に近づくと、最悪の場合、人格が鈍麻し破壊される恐れがあり、一見正しそうに見せた詭弁の世迷言を言い続ける、楽山と同じような亡者になるでしょう。理路ではなく罠を仕掛けて楽しむサディストです。
(ネットより)
「世迷言(よまいごと)」は、「ひとり言のように愚痴を言うこと」や「わけのわからない内容を繰り返し言うこと」などを指し、人の発言・意見などをののしって言う際に使うことが多い言葉です。「よまよいごと」と読み間違いをしてしまう人も多いのですが、正しくは「よまいごと」なので要注意!
由来は、「愚痴を言う」を意味する「よまふ」の連用形に、「言葉」を意味する「こと」を合わせた言葉だといわれています。
https://4meee.com/articles/view/30009856
世迷言の果て(よまいごとのはて)
(2021年)
(2022年11月15日、再録+加筆)
マイナス
マイナスの贈り物が
喜ばれないことは知っている
受け取ってさえもらえないことも
それは後ろ向きの霧の眼差し
踏み付けた霜柱に眠る
後味の悪い生き物だから
しかめっ面の鼻先で飛ばされるか
このようにはなりたくない
とさえ言われるものだ
出口のない迷路から
屈折して飛び出した矛盾だ
でもその成行きに生まれ育って
生きている以上いまさら
プラスのプラグを差し込んで
充電することなどできはしない
急に残された世界で神妙になったりなど
子供のように従順になって
笑って見せたりすることには
昔から失敗してきたから
美しいと呼ばれる朝と朝が来るときにも
沈んでいった夕暮れの足跡を
足音を求めるばかり
腹を空かした犬に
パンのかけらをくれてやっても
犬の暮らしを知ることはない
名残惜しい我が身の一日と一日
そうやって生死の悔いの狭間で
沈んだ日々が朝の中で
割られた薄氷のように
覚めてゆく
時間
あらゆるものは
見ているときだけ
そこにあった
信じられる
ぎりぎりの線を
歩いていた
言葉に迷い
逆説におぼれた
命に限りがあり
さかのぼれば
やはり物心という
始まりという限りがあった
長い長い時間の中で
ほんの短い間
存在する命
どんな生き方をしても
どんな死に方をしても
生きている間だけ
時間は存在し
そこにあって
過ぎてゆく
私の時間は
限りある存在を
うまくやり過ごす術をもたず
信じられない
ぎりぎりの線を迷いながら
知覚するときだけ
そこにあって
ありとあらゆるものが
そのときだけ
私に関わっていた
その大切な関係を
無視した分
私は不連続に
唐突に年老いていった
近道
近道をしようとハンドルを切った
広い道が狭くなった
曲がりくねった長く細い道
坂がきつくなった
舗装が途切れた
知らない家の前で行き止まり
道に迷ったということだ
バックするか
曲がりくねった長く細い道
途方に暮れた
日も暮れた
あぁ どこへ行くつもりだったのだろう
庭先を借りて方向転換
そうして今ここに暮らしている
楽山日記へのコメント再録(1.が、誰なのかは知りません)
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
保身だけの 卑怯者の君よ
そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
最大限の償いと 最大限の反省と共に
開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山の、邪悪な性根の根深さが表れています。「人間の性」などではなく、楽山固有の悪と罪と偽善です。これ以上、楽山の嘘と詭弁に騙される人がいなくなるように批判して、性根を暴いて、否定してゆくしかありません。
楽山には、良心と良識がありません。もしあったら、とうに、弁明できなければ書かなくなっていたでしょう。実際は、まともなつもりだけで執拗に書いてきたことが、楽山の欠陥を表しているのです。これからも、亡霊のように、よれよれの世迷言を書いてくるのでしょう。
楽山のツイッターですが
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★こも/楽山日記3
@komo266
「詐欺だ!」と断言するのはまずいんじゃないかと思ってたら、弁護士会のページでも「詐欺です!」と断言してるんですね。
「詐欺か?」とぼかした方がいいと思ってたが、弁護士会が断言してるということはそれでいいのかな。わからん。
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いい加減な楽山です。「ぼかした方がいい」という問題ではないのです。詐欺かどうかなど重大な問題について「わからん」ことは書いてはいけません。楽山は「わからん」と書いて、書いたことにしたいのでしょうか。動機もなく書いているのでしょう。楽山は、ずっと、言論の邪魔をしているだけです。
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★こも/楽山日記3
@komo266
HSを例にすれば、
まず優しい性格で人の悪口を言ったり、呪ったりしない人がいたとします。
こういう人が信者になってから、悪妻封印祈願などを当然のことだと言うようになったらヤバいです。
多分この人は退会後は、信者である間、自分の元々の倫理感、価値観を見失ってたと証言するでしょう。
2022年11月12日
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楽山は、アンチだと言っていたのに、霊能者気取りです。霊言、心霊、というような超常言葉でしか、宗教を語れません。宗教を心で受け取ることが出来ないので、不思議言葉でごまかすのでしょう。そして反省する心も持ちません。「倫理感、価値観を見失って」いる証拠です。
楽山は、正常な議論ができない人です。2コメント程度を返して、後は、表現だけ変えて自分の主張を繰り返します。相手の精神を疲れさせて、相手が退くのを見て快感を得ます。真実の追求などする気はありません。楽山のペースに乗ると、疲労だけが増してゆきます。どうか相手にしないでください。
楽山の害毒メモ:抜粋
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
偽善者の特徴でもあります。
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
平気で嘘を吐きます。
奇怪な単細胞。
(省略)
訂正不能の偏執。
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
慢心して中身の無い形骸。
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。放置すれば、無自覚の被害者が増えるでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。決して相手にしてはいけない人です。
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
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http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
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(ブログ記事をコピペすることあり)
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