謙虚3 | ウソの国ー詩と宗教(戸田聡 st5402jp)

ウソの国ー詩と宗教(戸田聡 st5402jp)

キリスト教、ポエム、理念、批判、など。古い記事が多いです。

 
  謙虚3
 
 
神を知性で捉えて理解することは出来ません。これは地上の人間にとって真実であります。したがって、神を、・・のはずだとか決めつけて、自分に都合が悪いからと否定するなどという無神教カルトは成り立ちません。
 
しかしそう言いながら、解釈においては、人にとって常識的な論理つまり知性を用いて、また良心に基づいて、人は神との関係を考えることが出来ます。それが神を知ることだと語ることも出来ます。それは、神の絶対と、人の不完全を弁える人において、良心があれば、可能です。
 
ここまでは「信仰の原罪」と呼ぶべきかもしれないが、人間にとって不可避です。信仰者にとって生きるために必要だからです。聖書の言葉だけを繰り返すだけで無思考の真実に至ることなどはないからです。聖書にて神は・・こう言われています、という書き方になるかもしれません。
 
信仰は、神を理解することではなく、キリストの命を賭した愛と共感をもって、神を信じ仰ぐことであり、神に、正直に祈ることです。人から、神への、唯一の音信であります。
 
しかし、神との関係を持ち、神を知ったと思う者が、やはり常識的な論理の言葉を用いていて、つまり死ぬまで人知によらざるを得ないのに、様々な個別の出来事や事柄を、人知の及ばない秘め事であるのに、神の行為と結びつけて判断し、確信の固定をもって伝え広めようとするのは不遜であります。
 
それは、聖三位と同等の振る舞いになり、神と人に対して明らかな傲慢不遜であります。
 
神のしもべであっても、様々の驚くべき出来事について、しもべは、主(あるじ)が人知を超えた御方であることを知るゆえに、信仰をもって、主を恐れ、主なる神の行いについて、しもべの浅知恵や限りある経験によって、断定することをも恐れるべきであります。
 
慎ましく受け取り、人は、間違いのない神とは違うのだから、確信を持って声高に語ることをせず、慎ましく語り、包み隠さず正直に祈ります。少なくとも都合の悪いことに目をつぶったり耳を塞いだり口をつぐんだり他者の口を封じたりはしません。
 
さらに自らの瑕疵(かし)を消して、まるで最初からなかったかのように、見せかけたりもいたしません。さもなければ、起こっている悲劇を見聞きしながら、我が身の多幸を感謝して、自分を満たすために、信仰に見せかけた心地よい砦を心に作って固まってはいけません。
 
人間は、成長するのであり、不変になるのではないからです。抵抗しない人だけを招き入れ、自分の解釈に神秘の味付けを加え、自分の花園をこしらえ造花を植えて愛でて満悦するような偽善者になってしまうからです。それは、カルトの萌芽なのです。
 
分かっていなければならないのが信仰ではなく
 
分からないならば分からないと正直に言う、そして正直に祈るのが信仰です。
 
信仰における謙虚、言い換えると敬虔というのは、悟りの境地で完成したと言う立場ではなく、神とキリストを聖書から学んで、成長することを旨とする信仰者の、不完全で罪深い自覚からくる柔和であり、何を言われても笑って受け入れることではありません。神の前の正直が前提だからです。
 
 

 
「いいね」を入れてくれたから見てみたブログでは、批判というものを害毒のように言ってるようです。批判と、悪口や攻撃を、混同しているようにも思えます。
https://ameblo.jp/soyokaze618/entry-12692820005.html
 
批判を書いている人はいっぱいいると思いますが、まず、この人が書いているのは批判ではないのでしょうか。さらに、批判についての基本的な誤解~曲解があるようです。
 
批判と言われているものには2種類あると思います。
 
1)相手を変えるために批判する・・これは、双方向が成り立つ間柄で、忠告や提案をすることにとどめておいたほうがよいでしょう。それ以上は、大方、うまくいかないと思います。
 
2)として、1)のやり方で相手を変えることは難しいけど、放置しておいたら害が増えるだけと思われる場合は、こんなおかしい人がいますから関わらないようにしてください・・というような、情報を公開してゆくことが必要です。
 
私の批判は、おもに、2)であります。つまり、批判記事は、こんなおかしい人がいますから、だまされないようにしてほしいという願いを込めて書いています。つまり、記事を読んでほしいのは、批判対象ではなく、一般読者であります。
 
批判対象は、記事を読んでも読まなくても、都合の悪いことは無視して、平気でいるような輩です。
 
明確な意志と方法を持って批判しているなら、批判することで不安になるようなことはありません。
 
悪いことをする人の情報を書かなくなったら、悪人は、どんどん蔓延ってしまいます。それと、悪い人の中には、善を気取ってだましてくる、いわゆる偽善者もいます。批判を全然しないのが正しいと思い込んでいる人は、偽善者クラスの悪人の手助けをしていることになるでしょう。
 
自分が批判するしないは個人の自由です。理由は、批判は苦手、とか、批判する気にならない、ということでもよいのです。しかし、一般的に、批判はよくないと決めつけるのは、それこそ、認識不足と自説への慢心による間違い~偽善と言うべきであります。
 
 
      
                 荒んでゆく偽善
 
 
(2011年)
(2021年)
(2022年08月29日、再録+加筆)
 
 
 
  きぼう
 
そらをみれば
そらにすわれ
こなごなになって
きえてしまいそうで
 
ひとをみれば
ひとみのおくにすわれ
すきとおる こどくのなかで
いきが たえて しまいそうで
 
いつのまにか
うすい いのちに さく
はなのあいだに
ただようかおりまつみの
ほのかな
ぬくもりのかげに にている
 
 
  高い窓
 
壁の 絵の
幼い少女は 手を伸べて
あそこよ と 指さしている
 
それが最初に見た
希望の形だった
 
伸びてゆく 手 が
かすかな影を ふるわせながら
うすい 光の 向こうで
声 を 待っている
 
孤独な 光だけが
医者のように 顔色を変えないで
夜じゅう 診ていたらしい
しらんでゆく窓に 衰弱して
くぼんだ 血管の 足音を聴いている
 
その小さなふるえから身を引いて
あきらめた 手 が
狭い視野から
落ちてゆくころ
 
また朝焼けの始まる
高い 窓の
物陰に隠れて
 
目覚めてはいるが・・・
 
 
 
 楽山のツイッターですが(再録)
 
楽山は、記事も、ツイッターも、自らは、はっきり言わず、責任を逃れようとしながら、他者の言から都合のよい文言を引用して、味方にしようとします。それで、引用の責任さえも、負わないでいいと思うような無責任ぶりであります。
 
 

心機一転★こも楽山さんがリツイート

優しい藤倉善郎
@SuspendedNyorai
今日の靖国神社前での戦利品は、幸福の科学、顕正会、法輪功、キリストの幕屋の各パンフ類。それぞれが入り混じって配布活動してた。
藤「幸福の科学は宿敵じゃないんですか」
顕正会「相手にしてないです」
藤「顕正会と一緒にビラまきしてて仲いいですね」
幸福の科学「国難ですから!(笑顔)」
午後7:49 · 2021年8月15日·Twitter Web App
 」
https://twitter.com/SuspendedNyorai/status/1426858644126134276

 
「キリストの幕屋」は、キリストの御名を利用している右翼の教団で、信条に大和魂が入っているという話を聞いたことがあります。純粋なキリスト教とは言えないでしょう。そして、楽山は、右翼のA級戦犯を褒め讃えるネトウヨであり、クラゲのように、蠢(うごめ)いている反キリストであります。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
思想・宗教についてのブログは、真実の追求という大きなテーマですから、日記とは違います。雑言とも違います。楽山は、雑談と同じように、ひやかしや皮肉をしばしば書いて笑いを入れます。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために真っ直ぐな心をなくしているからでしょう。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとするし、通っていると思い込む。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 

私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
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