楽山の無責任広告2
「キリスト教に関する来訪者の声」を読む
2021年08月13日 楽山日記(LD)
http://mn266z.blog.jp/archives/30131326.html
記事の大方は、リンクを貼っているようですが、いつものように、他者の口を借りて、キリスト教と信仰に、いちゃもんを言ってくる卑怯者の楽山です。話にならない人はスルーすると言っていた楽山ですが、いちばん、話にならないのは、楽山です。こちらは、リンクは貼りません。
楽山は、訂正不能の腐敗に陥ると、正当なものは、一切、理解できないのに、分かったつもりの、だまし言葉で、立派に見せようとしてくるのが今までの履歴であり、面白くもない偽善の道化なのです。楽山は、他者の都合を一切無視してくるので、楽山の言も一切無視してください。
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*知る喜び
この間から、佐倉哲エッセイ集の「キリスト教に関する来訪者の声」を読み返しているが相変わらず面白く、かつ勉強になる。
以下に、今回特に心に響いたところをメモしておきたい。
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佐倉哲は、聖書の話を、事実認定のように、ここが違う、ここがおかしいと、ケチをつけてくる人のようです。佐倉哲のプロフィールはホームページに「岡山県出身」「コンピューター・プログラマー(米国在住)」と書いてあるだけで、他のサイトにはないのです。楽山の成りすましかもしれません。
先ず、楽山は、勉強をしない人です。それで、読解力のないことが、書くものに表れてきました。そして、いつも、自分の快感につながる都合のよいことを漁っているだけです。その証拠に、読書したはずの楽山の宗教観は、読めたものではないのです。
楽山も佐倉哲も、聖書の心、信仰の心を持ちません。だから、一面的で、言っていることに説得力がありません。事実じゃなければ、嘘でしょうか。聖書が伝えているのは、大昔の、あるいは、奇跡の、事実性だけでしょうか、違います。
聖書が伝えているのは、人間のための真実なのです。心で読み取れない人には分からないのです。心に響くことを感受できない楽山と佐倉哲は、分からないまま、違う、違う、と言い張っているだけの、反キリスト、そして、妄想前提の無理解なのです。
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*信仰と探究
まずこのやりとりは、自分には真に迫るものがある。以前とある宗教を信じていた時に、「この宗教は正しい。自分は正しい宗教を信じている」という信仰と、「正しい宗教とは何か? この宗教は本当に正しいといえるのか?」という探究心との間で悩んだことがあったので。
・「キリスト教撲滅運動か」
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どうして、その間に悩むというのでしょう。しかも、言葉だけ探求心と言っていますが、楽山にあるのは、否定前提の、嘲りと悪意の犯罪心理だけです。別個の問題を区別できない楽山が表れています。楽山が「正しい宗教」も、信仰も、書けないのは、読んでも心に響くことがない病質だからです。
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*あれかこれか
これも自分には他人事とは思えないやりとりである。以前信じていた、とある宗教も自由を推奨しつつも正邪善悪をはっきり区分し、二者択一を迫るところがあったので。
・「二者択一の論理」
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嘘です。楽山には、すべて他人事だと思います。というのは、楽山には、まともな判断力がなく、この記事もそうですが、他人の言うことを、我執と我欲で選んで、もっともらしく、また、問題の的をすり替えて、怪しいと言ってくるだけなのです。
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*内村鑑三
佐倉哲氏がここで紹介している内村鑑三の言葉は、自分にとっては真っ赤に焼けた鉄のようであり、一度触れれば魂に深く焼印を押され、もう二度と忘れることはできなくなるようなものだ。内村鑑三は大きな人だと思う。
・「内村鑑三」
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楽山は、真っ赤な嘘と、焼けただれた言葉を、記事に貼り付けて送信し、それを、記事とか文章とか稿とか呼んでいるだけです。内村鑑三も、激しいところがあるので、それを、楽山は、好きなように悪用しているのです。最後には楽山自身が焼けただれることも知らずに。
楽山は、読む人に、最初は、やんわりと、ついには、消えようのない焼き印のように、刷り込んでゆく無神教カルトの煽動者です。反省もせず、責任も負わないで、楽山が書いてくるところの、丁寧語と、学者気取りに、だまされないようにしてください。
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*生け贄と神観念
ここでは日本人にとって生け贄という考え方が難解である理由が、分かりやすく説明されている。日本的感覚では生け贄を要求する絶対的な権力者は、「やまたのおろち」と同様に悪と受け止められるというのはその通りだと思う。少なくとも自分にはそういう感覚はある。
・「十字架」
・「十字架のあがないと日本人」
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楽山こそ、生きた人間と、生きた良心を、生け贄として、求めているのでしょう。心の底から腐ってしまうと、このように、人間離れした悪魔性になるということを楽山は示してきました。楽山ブログは、心の蓄えもなく、悪魔性が、インテリ気取りで、書いているインチキブログです。
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*本音と建前
ここでは聖書の無謬性についての本音と建前が語られている。
こういう文章を読んでいると、自分が信じていたとある宗教でも似た考え方があったのを思い出す。普段は「この教えは最高の真理だ。史上、これだけ素晴らしい真理が説かれたことはない」としつつも、その教えに間違いが含まれていることを指摘されると「それは枝葉の部分にすぎません。教えの本質を見てください。この本質においては少しの間違いもありません」というのである。この辺りの本音と建前は、どこの宗教でも変わらないのかもしれぬ。
・「写本・訳本問題」
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聖書を読んで無謬性の真理が人に分かるでしょうか、否です。聖書は、神の下でキリストの同伴によって、聖書に日々親しみ、人間として生かされる道を教えています。無謬性の真理を知るなどというのは自己満足したい人の欲望に過ぎないのです。人間離れの楽山は、聖書を曲解しているだけです。
信仰は、枝葉ではなく、有無の問題です。行為義認ではなく、道徳でもありません。楽山は、信仰を、多からず少なからずの安い楽山レベルの安い道徳におとしめてきました。楽山は、元々、救われたい気持ちもなく、嘘と詭弁で霊能者を気取っているに過ぎません。だまされてはいけません。
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*つづき
つづきは、稿を改めて…。
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まだ書くという脅しでしょうか・・・楽山の稿は、疲労と徒労の入り口です。あらゆる問題を無視して書いてくる楽山の文章には、今まで、説得力も、本心も、見られたことはありません。表れてくるのは、嘘と詭弁とペテンと悪意だけです。どうか、楽山と佐倉哲を、相手にしないでください。
独り芝居で自分がいなくなる人
(2021年)
(2022年08月25日、再録+加筆)
2021年08月13日
幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
「ブログ村騒動」発言集(コピペ批判)
http://mmknky21.blog.jp/archives/10585588.html
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*まえおき
数年前、ブログ村の幸福の科学カテゴリー内において、HS信者同士の争いがありました。通称、「ブログ村騒動」です。
*発言集
では、コピペ批判に関連した発言を貼ります。
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いつものように、他者のことばかり言ってくる楽山です。
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コピペブログをやってる人たちは、自分では文章は書けないけど、幸福の科学の教えは広めたいという気持ちから、せっせとコピペ記事作成してるのだろうし、きちんとコピペ元を明示してリンクを貼ってるなら、よしとしてあげてもいいような気はするけど、どうだろう。甘すぎるかな。
でも信者村では、コピペブログはいくつもあるし、ガンさんはいくつものブログに噛みついた形になっちゃってるな。
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楽山こそ、ツイートを貼りつけるのが好きなコピペマンです。自分では、理路が組み立てられず、共感が得られず、筋の通ったことが何も書けないからでしょう。一貫性もなく、反対して、賛成して、責任問題は発生しないなどと言っていました。
弱気の筆致で描いていますが、これは、楽山の芝居で、トホホ言語と呼んでいます。責任を薄くするための、お道化の一種でしょう。楽山は、「きちんとコピペ元を明示」しているでしょうか。「>」の使い方が雑ですし、リンクを付ける作業も怠っており、怠け者らしい書き方です。
楽山は、自分の意見に軸がないので、他者から、特に、有名人の本から、都合のいい文言を引っ張ってきます。誤解とかは考えず、自分のために、有名人さえも利用して、自分も同じレベルだと、学者やインテリを気取ります。そして、責任は、一切、負わないのです。
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相変わらず、コピペブログ批判をしてるようだ。
傍から見てると、ブログの方針にしても、アンチへの対応にしても、それぞれのブログによってちがっていていいと思うのだが、それじゃあダメなのかなあ。
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ボンヤリ言語「かなあ」が出ています。いい加減なことしか言えず、責任を負う気のない者の筆致です。それで、言ったことの責任がなくなることはありません。「ちがっていていい」と言って、引用して、責任は負わないわけです。そういう引用は、いちばん厄介でしょう。
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「信者ブログはこうあるべきだ」「アンチにはこのように対処すべきだ」という自分なりのポリシーを持つのは悪いことではないだろうけど、他人も自分と同じようにすべきだというのは行き過ぎのように思える。
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「こうあるべきだ」に対して、別のあり方を提示して説明することが、楽山には、できないのです。だから、何でも、議論も、言論も、投稿も、ブログも、リンクも、本の引用も、すべて、いい加減になってゆくのは、無責任の結果でしょう。楽山には自己愛性人格障害の病識がありません。
責任を負わないのなら、意見を言うべきではありません。自分のしっかりした意見が、楽山には、ないのです。楽山の人生観は、言いたいこと言って、気が変わったら、訂正も反省もせずに、好き勝手に、違うことを言ってもいいという考えなのでしょうか。だとしたら、社会人ではありません。
他にも、書いてありますが、似たようなものですし、お情けちょうだいの「かなあ」「だなあ」「なかろうか」の、ボンヤリ言語・トホホ言語で、まるで、おねだりしているような筆致は、臭くて、読むに耐えません。
「自分と同じようにすべきだというのは行き過ぎ」という言い方で、違ってていい → ゆえに勝手に書いている自分も正しい、という自己正当化です。他に、人それぞれ、自分を貫く、などという言葉を無条件に一般則にして、自己中を正当化してきました。日本語を知らないのでしょうか。
縊死(いし)
幾人かの自殺者が残していったものは
あまりにも急な沈黙に終わってしまって
動機も理由も結局は不明のまま
明確に語れる者は誰もいなくて
噂だけが死臭のように漂ってはくるが
口の中でムニャムニャ
聞こうとして聞くに憚(はばか)り
そのムニャムニャが胸の底まで沈んでいって
さらに病みながら片隅にあるばかり
キリスト者とはいえ自分の場合は
自殺しない保証は何もないから
せめて「ごめんなさい」と
祈りともつかぬ最後の独り言を
今更のように戯言を
そのときには呟くしかないのだろうか
すべては自分の責任において
首を括り首を吊る
責任と意志
いつの日からか
我が身から出たものは
いずれ我が身に返ってくる習いから
その顔が溢血点や鬱血や
腐乱や浮腫でどんなに醜くかろうとも
正視しなければならない
そう気づいたときから
自分で自分の首を絞める
という縊死は
繰り返される日常の中にある
あの世
明け方バイクに乗って山の上から
雲海を眺めていた
太陽、雲、あらゆる光
この目はうばわれて、どこか
この世にいなかった
翌朝、山のふもとの道
雲海の雲の中を走っていたのだろう
体はバイクの上で冷たく濡れていった
急に開ける視界
いつのまにか朝日をあびて
シャツが乾いて汚れていた
体はうばわれて、どこか
この世を離れていた
昼下がり、車のフロントガラスから
太陽を隠す大きな雲
そのふちは輝き、やわらかい輪郭の
空の上から下へ
隠された太陽から放射状にまっすぐ広がって
注ぐ光、光の帯
天国への階段かと
虹を思い出そうとして
色をうばわれて、どこか
この世に別れを告げていた
太陽は神ではない
しかしときに自然が見せる
とくに太陽にまつわる
この世ならぬ感覚は
ある種の喪失か自己消滅か
あの世
でもいいけれど
信じているものは求めて目に見えず
信じたい世界では
信じたい人々からは
信じるべきものは目に見えて闇のようだ
メッキは剥がれて
板よりも紙よりも細胞膜よりも
薄いスチールをメッキして
それに塩水をかけてゆく
成長と老化
剥(は)がれてゆくメッキの中は
恐らく醜(みにく)く見にくい
好きになれない自分のために
メッキは錆びて剥がれて
ボロボロになりながら
時々そっと中身を垣間(かいま)見せる
人を愛するためには
まず自分を好きにならなければ
と多くの人が言う
でもどうしてもやってしまうなら
自己嫌悪
それは愛すべき高さを持っている
(※ なお、いつもキレイごとを書いている無反省の自己愛は病気です)
楽山のツイッターですが
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心機一転★こも楽山
@komo266
与国さんなりに、自分に正直に、真摯に、命がけで意見を述べたのに、
霊的に悪い波動を受けての発言ですね、反省行に打ち込んでください、で済まされたんじゃ、たまったもんじゃないな。
まあHSでは、教祖、教団に不都合な意見は「下のものに言わせられてる」で片付けられるのが当たり前なんだけど。
午前7:09 · 2021年8月13日
https://twitter.com/komo266/status/1425942447452868613
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「霊的に悪い波動」は霊能者気取りの楽山の嘘と詭弁のことでしょうか。楽山は、ふつうに生きてるつもりなのでしょうか。教団の不都合を言いながら、一方では、キリスト信仰をおとしめて、右翼思想家を讃えて、霊やホラーに気を奪われて、他者の気を奪っている超・無反省・無責任の楽山です。
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★こも/楽山日記3
@komo266
これは、一般人とはちょっと違う特別な自分が大好きなナルちゃんキャラですね。
純文学の主人公によくいるタイプ(笑
引用ツイート
Rダークネス【幸福の科学はカルト宗教】
(画像省略)
@darknessV321
· 8月23日
教祖のヤバいポエム。
午後7:11 · 2022年8月23日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1562019588531191809
<
教組がナルシストだと言いたいのでしょうか。楽山もナルシストで、自慢できるものは何もなく、それで、ますます自己中になって、嘘を吐き、人をだまして、迷惑ばかり掛けているのです。また、自分を見ないで、他者をけなしている楽山です。ずっと、笑い続けるしかないのでしょう。
「一般人とはちょっと違う特別な自分」を笑う資格は楽山にはありません。楽山は、一般人の良心も良識も持たず、無反省で無責任で、笑いながら人を貶すのが生き甲斐のようです。自分が、カルト同然の単方向になっていることも気づかず、ずっと"(笑"っているのです。
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
「
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
」
>
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
<
嘘を吐き続け、詭弁を遊んで、それで、言い分が通ったと思い込む精神は、明らかに病質です。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なのです。記事で嘘を吐き、ツイッターで嘘を吐き、引用を曲げて自分の言い分に見せかけて褒めてきた楽山です。人間としての自分が無いのです。
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
ツイッター:
https://twitter.com/st5402jp
(ブログ記事をコピペすることあり)
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