核の抑止力? | ウソの国ー詩と宗教(戸田聡 st5402jp)

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キリスト教、ポエム、理念、批判、など。古い記事が多いです。


  「核の抑止力?」
 
根源的な疑問:
核という桁外れの巨大なエネルギーが、はたして、
過ちを常とする人類の手に負えるのか。
 
核というものがもたらす被害は
空間的にも時間的にも限定できない。
また核を作るのも管理するのも人間である。
「被害の限定困難」と「人の問題」を考えると、
核の被害を確率または確率の期待値として
数値化することは不可能に思えてならない。
 
広島と長崎に原爆が投下された時というのは、
「それが戦争だ。仕方ない。」
という言い訳が通用しない時代に
人類が突入した時であったと思う。
 
広島と長崎に原爆が投下されたとき、唯一、
不幸中の幸いと言えることがあったと思う。
それは、そのとき
日本が原爆を持っていなかったということである。
もし持っていたら迷うことなく使っただろう。
そうすればアメリカは、さらに大量の原爆を生産し
日本全土に投下しただろう。そうなると、はたして、
日本という国が現在、存在しているであろうか。
 
「核の抑止力」というのは、
核保持の正当化のために後付けされた理屈である。
核のなかった時代の武力ならば
「抑止力」は必要だったかもしれない。
しかし「核の抑止力」の本態を考えると
「もし核兵器で攻撃してきたら、
こちらもこんなにすごい核兵器でやり返すぞ」
という、核攻撃される恐怖に基づく
「脅し」だと思う。
「脅し」が永遠に脅しのままでありうるか。
否定的にならざるを得ない。
もし
脅しが脅しでなくなった場合、核ではなく
「核戦争の連鎖反応」というものを考えてしまう。
核戦争において先ず狙われるのは
相手国の核基地と政府である。
それは分かっているから、相手国も
敵のミサイルが着弾する前に
敵の核基地と政府を狙ってミサイルを発射する。
そのミサイルが着弾する前に敵もまた発射する。
その応酬によって
いったん核戦争が始まると
極めて速やかに壊滅的事態が進行してしまう。
 
核についての警戒すべき思想:
先ず原発の安全性を広める。
「事故の確率は数学的に計算すると、
こんなに低いから、原発は安全だよ」などと刷り込む。
それが成功したら
   ↓
「核兵器も管理すれば心配ないよ。
それに抑止力だし・・・」と核武装を推進する。そして
何らかの天災や人災や戦争による混乱が生じたとき
   ↓
「核兵器も小さいものなら、
必要なときには使うべきだよ。」
(小さいものなら、自衛において、
通常兵器で充分なはずである。詭弁といってよいだろう。
大きい威力が欲しいから核兵器に頼ろうとするのである。)
こういう思想の流れを作為的に
作ろうとする人々がいないことを切に祈り願う。
とともに、絶えず注意し警戒し監視すべきだと思う。
恐らく
昔、大久保利通がビスマルクに言われたとも聞いているが
「対等な武力を背景にして初めて対等な外交関係が可能になる」
という核以前の時代の古い理念を踏襲したいのかもしれないが、
終末的に近い核の時代にあっては上述の
「脅しが脅しのまま永続するか(否)」「核戦争の連鎖反応」
によって壊滅と滅亡への道を進むだけになることを危惧する。
 
仮に
日本が核武装した場合、悪意ある相手国から
核ミサイルが、迎撃も虚しく、日本に打ち込まれ
大半が民間人の100万人が死んだとする。
そのときに日本は相手国への報復・復讐として
相手国の、これまた、民間人が大半の100万人を
核兵器によって殺すべきかという問題に直面する。
もし100万人を殺せば、さらに核兵器の応酬は、
他国も巻き込んで、両国~世界の滅亡を招く
ように思えてならない。
 
わが国は、核の時代にあって、
核戦争を防ぐ方向を持つ唯一の手段としては、
いかなる他国にとっても脅威にならない国を目指す
以外にないとしか考えようがないのが今の私である。
 
たとい極端な場合の結果として
日本と日本民族が、結果として、核兵器によって滅びたとしても
日本は、けっして核兵器によって
他国や他民族を滅ぼす国になってはいけないということを、
誇りを持って、わきまえる国であって欲しいと思っている。