児玉神社/山口県周南市児玉町 | 沸点36℃

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他愛のない日常と歴史散策、主観

5月3日散策/児玉神社


長府の乃木神社へ参拝したら、次は絶対、徳山にある児玉神社へ行きた~いって思っていたの

それで今回、オッパにお願いをしてごめんなさい周南市へ来たんだ´艸`

5年前の東日本大震災がおこる直前に、赤坂にある乃木神社へは少~し見ていたりするんだけど、その頃は全然歴史を知らなかったし、神社そのものに関心もなかったからほぼ素通りしているんだよね

乃木希典?誰それ、だったしブッ

3年くらい前には、徳山の町を歩いているときにたまたま児玉神社も行ってるんだけど、デッカい石碑があるな…くらいでがびょーん
それよりも七士の石碑があって、七士?誰やねんだったんだよね

こんなんだから、初詣へ行くなら人がいっぱい居るところなら安心(何が?)と明治神宮へ行った時に、あまりの混雑でなかなか参拝出来なかったから、原宿の竹下通りに入ってすぐの東郷神社へ「学問の神様らしいし、いいんじゃない」ってことで初詣を済ませた話を、のちにオッパに話したら、

「東郷平八郎を知らないで初詣したのか」

って、呆れられたわ汗

でも、今回はちゃんとお勉強して、それで児玉神社へ行きたいって思ったの

わたしは、軍人さんで誰が好きとかないけれど(未だに東郷平八郎知らないし)乃木さんは、同じ宇多源氏佐々木氏流に属されているからとても親近感が湧くんだけど、

軍人さんの中では児玉源太郎が一番好きかな



■児玉公園の児玉源太郎像

児玉源太郎の顕彰を目的として児玉公園の一角に平成23年7月設置

そういえば、ここって徳山小学校の隣に位置していて、徳山小学校の前身が藩校鳴鳳館

鳴鳳館の名を廃して興譲館に改称されている歴史があるんだけど、児玉さんって確か興譲館に通われているよね


 
児玉神社は、大正11年12月に地元有志の発起により、児玉源太郎を祭神として創建

社殿は、神奈川県江ノ島に建設されていた神殿と附属建物を移し、旧邸址に建立された
先の大戦で戦火に遭い、拝殿は戦後に再建されている

参道の石鳥居は、元台湾総督佐久間佐馬太の寄進によるものだが、昭和42年に再建立された



■徳足以懐遠

大正7年13回忌に地元奉賛会にて建立
男爵後藤新平書

後藤新平は、陸中胆沢郡塩釜村(現在の岩手県)に生まれた医者で、児玉源太郎に認められ、台湾の民政長官のほかに満鉄の初代総裁、鉄道員総裁、第二次桂内閣の逓信大臣、拓殖局総裁、拓殖大学総長、外務大臣を歴任し、大正12年関東大震災の前まで東京市長を務めている



■山縣元帥の児玉大将の死を惜しまれる歌

越えはまた里やあらむと頼みてし
杖さえ折れぬ老の坂みち



■後藤新平参拝記念碑

昭和2年、後藤新平が児玉神社に参拝し、児玉文庫訪問
その時の揮毫を昭和16年に刻んで建立



■日本帝国褒章之記

児玉源太郎の姉久子が明治14年緑綬褒章を下賜されたことを記念に昭和3年建立



■児玉源太郎薨去御沙汰書

児玉源太郎薨去に際して賜った御沙汰書を刻み、昭和13年に長男秀雄が建立



■活氣長存

児玉源太郎没後100年を迎え、台湾の李登輝元総統が揮毫した



説明板より

児玉源太郎は、徳山藩士児玉半九郎の長男として徳山本丁に生まれた

5歳の時に父がなくなり、幼少で家督が継げないため浅見次郎彦を養子に迎え、長女久子が妻となる

源太郎は、文武に秀でた義兄次郎彦の影響を受けて勉学に励むが、正義派であった次郎彦が俗論派によって暗殺され、宅地は没収、家名は断絶となった

その後家名再興するも当時13歳の源太郎と一家は深い無念や苦難の生活を経験することとなった

源太郎は、明治元年徳山藩献功隊半隊司令として出陣
以後類希な優秀さで昇進を続け、陸軍軍人として非凡なる能力を発揮し、明治20年陸軍大学長、31年台湾総督、33年陸軍大臣、さらに内務大臣や文部大臣と国家の要職を歴任する



特に、台湾総督時代には、民政長官に起用した後藤新平等と道路・鉄道・港湾の整備や、医療・衛生の改善など大事業を次々と成し遂げ、台湾近代化の基礎を築いた

また、日露戦争においては満州軍総参謀長として、乃木希典等と難功不落の旅順要館塞を攻撃占領し、日本の勝利に大きな功績を挙げた

このような歴史的な働きにより源太郎は、日本、台湾のみならず世界各地の人々から敬愛されたが、日露終戦講和の翌年に55歳で生涯を終えた

その後各地に源太郎の遺徳を後世に伝えようとする碑や像が建立され、大正10年には源太郎ゆかりの地である神奈川県江ノ島に児玉神社が創建された



■拝殿の「児玉神社」の掲額

児玉源太郎の長男秀雄の揮亳
家紋は二文字に三つ星紋と唐団扇笹紋

毎年3月10日の旧陸軍記念日に例祭が行われる



境内には徳山七士碑がある

徳山七士とは、幕末の徳山藩で尊王攘夷派として活躍した兒玉次郎彦、江村彦之進、河田佳蔵、井上唯一、本城清、浅見安之丞、信田作太夫の七人を指す

元治元年(1864)8月、次郎彦をはじめ七名の士が、藩政を仕切っていた保守派富山源之丞暗殺未遂事件を起こす

元治元年は禁門の変や馬関戦争が起きた
萩藩受難の年でもあり、その後、過激派に対する粛清の手が伸び、次郎彦は屋敷の玄関で非業の死を遂げている
源太郎が百合若と呼ばれていた13歳の時であった

明治になって七名全員に従四位が贈位されている



■徳山七士碑

明治21年、徳山藩勤王七士の功績を称えて建立

萩藩毛利元徳篆額、杉孫七郎書



後に、徳山藩主毛利元蕃の意向で靖国神社に合祀された七士

七士のひとりでもある井上唯一の辞世の句

■かけろふの 有かなきかの身をつみて 人の痛さもさとりこそすれ

処刑を前に、自らをはかないカゲロウにたとえ、人生を振り返ったとみられる
唯一は奇兵隊士で、下関での攘夷決行、七卿落ちの際の警護にあたるなど、23歳で閉じたその生涯は長州の幕末史そのものだと語られている



■台湾五葉松

大正14年(1925)児玉源太郎の遺業を末永く称える記念樹として、台湾五葉松の幼木が境内に植えられたが、昭和37年に都市計画により街路が改修される際に、伐採の話が起こるもそのまま残され、現在も4本が命脈を保っている

太平洋戦争の米軍の空襲にさらされながらも、現在も青々と繁茂している様子は、日台関係の思いをまるで象徴するかのようねきら


ぺこぺこり


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