甲宗八幡宮/福岡県北九州市門司区 | 沸点36℃

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他愛のない日常と歴史散策、主観

4月30日散策/甲宗八幡宮


「門司へ行こう(*'∀`*)vおんぷ」ってなった時、甲宗八幡宮へ行きたいって言い出したわたし´艸`

もともと神話的な話は苦手で、神社とかへ行くと、古代神話や伝説をあたかも史実であるかのようになっていたりして、 しだいにその話には尾ひれがつくようになって、ますます具体性に欠けてきて信憑性も低くなってたりして、

神社のご由緒などを見ると、あり得そうな記述があったとしても、こじつけとしか言いようのないものだったり、それが史実なら、教科書に載っている日本の歴史はひっくり返るわけで、

神話や伝説から歴史を組み立てようとしても、それは新たな神話を生むだけであるのに、皆、神話や伝説は事実を反映したものだと思い込んでしまっているところがあるよね



そんな神話からどう向き合えばいいんだろうと、常々考えているんだけど、

同時に、神社というものをどう考えるか、どう感じるか

神社とその歴史が、日本の歴史と文化にどういう意味をもたらせているのか

わたしが神社へ行くのは、きっと、神話や伝説から続く神社から伺える神秘性に、どれだけ惹かれるか…なんだろうなブッブッブッ

知ることで想像したり、あとで調べたりして、なんかふと、神話や伝説と神社の社説が繋がったりしてね、わくわくするんだきら

この甲宗八幡宮へ行きたいと思ったのは、そうした神話や伝説に繋がっている神社だから…ではなく、ただ単に「平知盛のお墓がある」らしいから、行ってみたかっただけなんだけどねブッブッブッ



関門海峡からも近く、そこには和布刈神社もある北九州市の端っこに位置する甲宗八幡宮

和布刈神社っていうのは、神功皇后の三韓征伐後に奉祀されたもので、仲哀天皇9年(200)の創建なんですって
壇ノ浦の戦いの前夜には、平家一門が酒宴を開いたとも伝えられているのよね

こちらは未だ行けていないんだけど顔に縦線2オイ

甲宗八幡宮の人に「神社の名前に甲と付いているのは、何かそれに由来する理由があるからですか」と、オッパが何気に聞いたら、そうそうひらめきそれなんですよ~って、資料を持ってきてくださり、お話も沢山聞けたの

甲宗八幡宮の甲は、御神体が神功皇后の着用した甲だそうで、そこからついた名前なんだって

御祭神は、
第一殿 応神天皇 
第二殿 神功皇后 
第三殿 市杵島比売命 多紀理比売命 多紀津比売命



応神天皇や神功皇后の名前が偉大過ぎて、聞き逃しちゃうとこなんだけど、この杵島比売命と多紀理比売命と多紀津比売命って?ってオッパに聞いたら、

沖ノ島、大島、玄海町田島に鎮座する三神で、杵島比売命っていうのは田島の市杵嶋姫であって、多紀理比売命っていうのは沖ノ島の田心姫、多紀津比売命は大島の湍津姫のことじゃないのかな、ってさダッシュ
オッパ、あなたは学者か(*ノ∀`)ペチッ

そう、その島全体が御神体にもなっていて、福岡県の玄界灘にある3つ並んだ小さな島がね、世界遺産になるかもしれないらしいのΣ(・ω・ノ)ノ

行きた~~~い♪って言ったら、どうやら女人禁制らしく、男性でも上陸前には禊を行なわなければならないんですって

しかも島に立ち入って見聞きした事は他言無用、口外しちゃいけないんですってジブリ 千と千尋 かおなしジブリ 千と千尋 かおなしジブリ 千と千尋 かおなしオ~マイガッ

甲宗八幡宮は、もしかしたら、もともとはその神様をお祀りしていたとこなのかもしれないよね
そこへ新たな御神体に神功皇后とかを加えられたのかな

因みに、沖ノ島と大島と玄海町田島を線で結び、その先を真っ直ぐ辿ると釜山だってひらめき



甲宗八幡宮のご由緒によると、

清和天皇貞観元年、大和国大安寺の僧行教が宇佐神宮に参拝し、

「桓武天皇は都を平安京に遷させ給うてより、五十年以上も経過したが、未だに王城鎮護の神なし
願わくば神慮我に降って、守護神を教え賜え」

と祈願したところ、

「吾れ都近く移座して国家を鎮護せん」

とのご神勅を受けたことにより、貞観二年、清和天皇は太宰大弐清原真人岑成を勅使として派遣しました

勅使の旨を受けた僧行教は、宇佐神宮の御分霊を山城国に遷座する(石清水八幡宮の創建)途中、門司ヶ関の霊峰筆立山の山麓に駐留しました

すると、筆立山上空に瑞雲たなびき、不思議にも八流の幡を天降して、光り日月のごとく行教の袈裟を照らしました

行教は大神の出現疑うべからずと上申し、この地に宇佐神宮の御分霊をまつり、神功皇后御着用の御甲を御神体として当神社を創建しました

御甲を御神体としてまつることから甲宗と称します

祭主(初代宮司)は宇佐神宮の初代宮司大神比義を始祖とする大神義勝であり、以来同家が宮司職を務めております



その神功皇后の甲、50年に一度の大祭の時にしか拝観が出来ないんですって

それがついこの間、2010年にあったそうで…え、次に見れるのは…2058年

大丈夫だろうか汗わたし達、見れるかなぁ…(見る気、満々)

その甲、鑑定したところ、平安時代から鎌倉時代のもので、同様の物が三ヶ所にある…なんて説もあるようだけど、

そうなると時代的に神功皇后の物ではなくなるけれど、それに関連した物か、それに匹敵するほどのその時代の最上な物なんだろうね



そういえば、下関にある亀山八幡宮も応神天皇、仲哀天皇、神功皇后を主祭神としていて、あそこは他に仁徳天皇と武内宿禰をあわせて祀られているね

亀山八幡宮か…行けてなかったなブッ

なんか、この地域独特の共通の御神体を祀られているんだなぁとWikiで調べたら、あら、なんだ、亀山八幡宮もご由緒が甲宗八幡宮と一緒なんだね

創建年月に微妙なズレはあっても、宇佐の八幡様は、京都へ辿り着くまでの間に精力的に分社をお作りになられていることがわかる

神功皇后については、甲宗八幡宮は別枠で記載があり、

仲哀天皇の皇后であります神功皇后は、天皇が亡くなられた後に御意志を継がれ、九州の諸豪族と関係のあった三韓と仲違いがあり、その是非を正さんと出兵しました

その時に皇后のお腹にいらっしゃったお子様は、凱旋後すぐに筑紫国で誕生しました

そのお方が応神天皇でございます

皇后は長府の豊浦宮(忌宮神社)に皇居を定め、九州の諸豪族の動静をしばらく見定めるうちに三韓に対しての誤解も解け、前にもまして交流は盛んになりました

その後、機会あるごとに学問、工芸、殖産などの技術者を招き、常に大陸文化を吸収する素地を作りました

だって



甲宗八幡宮の境内には平知盛のお墓があったよ

拝殿の隣にあるんだけど、でもね、これ以上は入れなくて残念

向かって左が墓かな、右は供養塔と思われる

説明板には、

この石塔は平知盛(1152~1185)の墓として甲宗八幡神社に伝わるものです
知盛は平清盛の四男で、勇猛果敢な武将として能「船弁慶」などの芸能にも取り上げられております

父清盛亡き後、平家の総帥となった兄宗盛を補佐し、平家一門の統率的存在となり、寿永三年(1184年)所領の彦島に本拠地を置き、古城山山頂に門司城を築いて戦に備え、翌年の壇の浦の戦い(1185年3月24日)では田野浦に兵を集め、万珠・千珠島付近に布陣する源氏を攻めますが、義経戦略の前に武運なく敗れ、安徳天皇をはじめ平家一門の最後を見届けると「見るべき程の事は見つ(見るべきものはすべて見た)」と潔く入水してその一生を終えました

墓は甲宗八幡神社が鎮座する筆立山山中にありましたが、昭和28年の門司の大水害により流れ、拝殿裏に傾いたままの状態にありましたので、ここに再祀しております



文治元年(1185)には、平家追討の祈願に源範頼と源義経が参拝、重藤弓と鏑矢を献上

壇ノ浦の戦いの際に被害を被って荒れ果てた社殿を、源範頼と源義経の兄弟が再建されている、と云われているんですって

建武3年(1336)には、足利尊氏が先勝祈願

以降、大内義興や義隆、毛利元就、元徳、細川忠興、小笠原忠真、忠微などの崇敬も篤く、それらの書状も社宝として存在しているらしい



先の戦争では、昭和20年(1945)門司大空襲により社殿を焼失
現在の社殿は昭和37年の再建によるもので、伊勢神宮の御用材も利用されているとか



あっびっくりそういや出光佐三との縁が深いらしく、出光さんから奉納された手水社や鳥居、記念碑やらがあって気になってはいたんだけど、

出光佐三って出光興産の創業者ね
え~~~っと、えっとえと…嘘八百田直樹
百田直樹が出光さんをモデルに描いた小説「海賊とよばれた男」速攻、映画にもなったよね

「永遠の0」の時に、話題になっていたし、戦争ものだから単行本も買ったし、映画も観ようとしていたの
でも読めなかったし、映画も最初の5分で観なくなっちゃったわ汗
あの作品の構成が、わたしにはどうも合わなくてブッ

あ、きっと、百田さんの作品はわたしには合わないんだなってことで、当然「海賊とよばれた男」は観ていないんだけど、

そんなことよりその出光佐三さんって、ここ甲宗八幡宮で結婚式を挙げているのかΣ(・ω・ノ)ノびっくり



大正15年6月に、土佐藩主山内家の一族でもある女性と、この甲宗八幡宮で再婚されたとのこと



境内には沢山の文学者の石碑があって、江戸時代の国学者で、古事記や日本書紀、源氏物語、万葉集などの研究をされていた本居宣長の歌碑や、

門司港から中国戦線に出征した小倉連隊の兵士たちの慰霊碑には、火野葦平の詩が刻まれている

■足は地に
心には歌と翼を
ペンには色と肉を

■杭州西湖の思ひ出に
西湖の水の青くして
紅木蓮の花咲けば
たづぬる春の身に近く
兵隊なればたのしかる



明治維新百年記念碑には劉寒吉の歌碑

■國興す
明治のこころ
傳えんと
甲宗の宮に
いしぶみの建つ



神社って、古代においては決して宗教的施設としてだけで存在していたのではなく、時の権利者や政治と密接に結びついていた場所だったのね

神社創建の経緯や、祀られている祭神について書かれてある由緒は、長い歴史に満ちた、時には神話的な記述にもなっている

そこから読み取れる歴史はいったいどのようなものなのか
知らなかった地元の歴史がちょっとだけ見えてくるようで、わくわくするわ



このお塩、甲宗八幡宮で戴いたの
色々と教えて下さり、ありがとうございました

そういや「槍をも通さぬ小倉織」と武士達に重宝されていた丈夫な小倉織で作られた御守りと御朱印帳があったよ


4月29日、30日に散策した記事をほぼ毎日UPしたわけだけど、3週間もかかってるしブッ
どんだけ歩いてるねん


ぺこぺこり


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