4月23日散策/黄龍山玄済寺
吉敷毛利家の菩提寺、黄龍山玄済寺
曹洞宗の黄龍山玄済寺は、吉敷毛利家の始祖秀包が、長門市湯本・大寧寺十八世鉄村玄さく和尚を開山として迎え、豊浦郡豊北町阿川に創建
はじめ「黄龍山江見寺」と言っていたみたい
のちに秀包の法号・瑞光院殿玄済道叱大居士からとって「玄済寺」と改めたんだそうよ
寛永2年(1625)秀包の孫・元包の時、領地替によって当地に移住
以来、吉敷毛利家の菩提寺として現在に至っている
願かけ地蔵
戦前から信仰されているみたい
開基された毛利秀包は、毛利元就の末子で幼名才菊丸、市正、藤四郎
のち、兄の小早川隆景の養子となり小早川藤四郎元総と称していて、
さらに、豊臣秀吉と輝元(毛利元就長男隆元の子)との講和の後、上坂し豊臣秀吉に仕え、小早川藤四郎秀包と改名している
その後、隆景に猶子として秀吉の甥・秀俊(のち小早川秀秋)を迎えたので、隆景は秀包に一家を建てさせ、再び毛利姓に戻したんだと云う
秀吉の四国・九州征伐、また朝鮮の役などに従軍して大いに功があり、久留米で13万石を領し、従四位、侍従、筑後守となっている
慶長5年、大坂より帰国の途中、船中で病を発し、翌6年赤間関(下関市)で没している
■大田報助寿蔵碑
大田報助は吉敷毛利家の重臣で、明治時代の歴史家で「毛利十一代史」の編修にあたっている
豊後(大分県)日田の咸宜園で学び、郷校・憲章館の学頭にもなっている
豊臣の桐の紋と小早川の左三つ巴の紋
そして
毛利の一文字三つ星紋
この布袋さまの掛け軸は、吉敷毛利家のお屋敷の玄関に飾られていたんですって
あ、可愛い
こうゆうの、大好き
来年こそは大内人形の雛壇3段飾り買ってもらおう♪(´ε` )
■毘沙門堂
堂内の毘沙門天像は、大内義興が念持仏として信仰したもの
大内義興の霊牌と共に中尾・凌雲寺から移されてきたそうよ
ここは坐禅堂も兼ねているのね
■福原広俊之墓
吉敷毛利家がここへ移住するまで、福原氏が吉敷の領主で、ここは菩提寺だったみたい
後に宇部領主となっている
幕末の激動期には、禁門の変の責任を取って、自らの命を絶って防長2国を救った福原越後
江戸時代最後の領主福原良道は、明治時代初めに他村の手に渡っていた石炭の採掘権を買い戻し、地元資本による炭鉱経営の基礎を築き、後の宇部の石炭産業発展の道を切り開らいている
ああ、宇部かぁ~
久し振りに行きたいなぁ
ここのお寺は、お庭が綺麗なんだ
いつもよしき軽井沢通りのイベントの時にしか吉敷には行かないからわからないんだけど、きっと秋の紅葉も綺麗なんでしょうね
山口の山は優しい姿でね
関東の勇ましい「オレは男だぜ」っていう山ではなくて(どんな山だ)
吉敷はお花がいっぱいで、町並みが本当に綺麗で、のどかで
ここのお寺、好きだなぁ…
集めてるわけではないんだけど
生まれて初めて御朱印をいただいてしまった………
結婚して、神社やお寺をどれだけまわったかな
書いてもらっておけばよかったかな
どうすればいいんだ、これ…
1年前と変わらないブログだね