瑞雲山龍福寺/山口県山口市大殿大路 | 沸点36℃

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他愛のない日常と歴史散策、主観

3月12日散策/瑞雲山龍福寺


曹洞宗瑞雲山龍福寺

建永年間(1206年~)大内満盛が開基となり、山口の白石で創建された臨済宗に属した瑞雲寺に始まり、享徳3年(1454)大内教弘が開基となって、雪心を開山として中興し曹洞宗に改められ、現在の山号寺号となった龍福寺

天文20年(1551)、陶晴賢が主君である大内義隆に対して起こした謀反(大寧寺の変)に伴う兵火で焼失するも、弘治3年(1557)後奈良天皇の綸旨を受け、毛利隆元の開基によって現在地(大内氏館跡地)に移され、自害した義隆の菩提寺として復興した、そんな歴史あるお寺

この龍福寺の地は24代大内弘世が正平15年(1360)の頃、大内御堀から山口に移って屋形をつくったところなんだ~

明治14年(1881)の焼失のあと、明治16年(1883)に大内氏の氏寺である氷上山興隆寺(山口市大内氷上)の釈迦堂(室町時代建立)を移築して本堂としている



梅の見納めにカップルキラキラ
オッパが行きたいって言うから(*'∀`*)vおんぷ

なんだかんだ、わたし達って年中龍福寺へ行ってるよね~



紅葉が美しい参道、大殿大路に面している

今の時期は何も無いかなぁと思っていたら、

あれ???桜???
まだこの頃は、東京でも開花宣言してないのに



彼岸桜かなぁ~
素敵きらきらきら



参道にはさきがけの松の石碑があってね

明治28年鴻東尋常高等小学校(現在の大殿小学校)の開校記念に一本の松が植えられ、翌年明治の元勲山県有朋がみえ、子供達が将来に向って大きく羽ばたき成長する事を願って「先駆ける」との意味から「さきがけの松」と命名、揮毫されて、大殿地区の有志によって建立された由緒ある石碑なんだそうよ

当時の鴻東尋常高等小学校は参道北側に隣接してあったんだそう

山縣さんといったら…またあの話題かよ顔に縦線2なんだけど汗

大阪の某私立幼稚園で、園児達が教育勅語を暗唱させられていたね
わたしなんかテレビで見た瞬間、言葉失ったくらいの衝撃だったわ

しかも、とある政治家は「素晴らしい」と絶賛してたからねがびょーんハハハ失笑
でも、まぁ…八紘一宇を礼賛した発言が国会であったり、 神武天皇以来の伝統を持った憲法を作らないといけないと言ってトップ当選されてたりする世の中ですからねぇ~…

1890年に教育勅語が制定されているんだけどさ、主導したのは山縣さんなんだよね汗
でももう時代が違うし、そもそも明治国家のために作られたものやん

日本国憲法などと全然噛み合っていないのに、その某幼稚園では15年前から教育勅語を導入されているって聞いたんだけどさ、

どうなのよ???

明治憲法の方が良かったっつう流れですやんか顔に縦線2

最近なんだかおかしいよ
安倍内閣で教育基本法が改正されているけど、例えば「道徳」

2018年度から小学校では正式教科になって、成績評価がつけられる
だけど、これってさ、心のいわゆる内面的な部分を評価するんだよね?大丈夫かいな

そんでもって道徳の教科書検定が行われたわけだけど、訂正箇所がいくつかあって、

「パン屋」は郷土愛不足で「和菓子屋」に訂正されたって

は?なんなの???ブッブッブッ

どこへ行こうとしてるのかな頑張れニッポン

因みに、その某幼稚園の遠足では軍事基地へも行っていたんだそうだ
子ども達が他国の脅威に対する自国防衛に備えるためのカリキュラムの一環だそうで

まぁ、ねぇ…
わたしの通った幼稚園も、お泊まり保育で武器学校行ってたしねブッ
戦車とか乗って、わ~い♪わ~い♪って写真撮ったけど、今考えてみたら、そこで当時は桜花の訓練をしていたり、そこの生徒さんは人間魚雷回天で出撃されて戦死されていたりするんだよね…

なんだかなぁ…
てか、日本って、変わったようで全然変わってないんだね



この参道には、天文19年(1550)フランシスコ・サビエルが大内義隆に謁し、布教の許可を得て大殿大路の井戸の傍で初めてキリスト教の布教をしたと云われているんだけど、その井戸を再現したものもあるのよ

この山門は、明治14年(1881)の時の火災を免れたものだから、毛利隆元の建立したものなのかな



この梵鐘は、大内義隆が享禄5年(1533)に九州葦屋の名工大江宣秀に作らせた国の重要文化財「興隆寺梵鐘」を縮小、複製したもの



わぁ(*´∀`*)ノまだ咲いてるぅ♡

白梅、紅梅、しだれ梅…
数種の梅の木が植えられていて、龍福寺も山口市の梅の名所のひとつだね
 


大内義隆は、周防・長門・豊前・筑前・石見・安芸・備後の七カ国の守護を兼ね、官位は従二位まで昇進したんだそうよ

だから、各国からの来客も多く、その客をもてなすために豊後から庭石を運ばせ広大な庭園を築いていたのね

その豊後岩が、雨の夜になると豊後を恋しがって「豊後に帰りたい」といって泣くんですって

あ、そだ

ここの資料館には、義隆公の七回忌に隆元が描かせた画が展示されているわ



緋寒桜

旧暦の正月あたりに咲くことからガンジツザクラ(元日桜)と呼ばれることもあるそうよ



山茱萸の木

黄色いお花がとっても綺麗
サンシュユの別名は「ハルコガネバナ春黄金花」

もともとは薬用として渡来してきたもので、原産地は中国や朝鮮
漢方薬として干したものは強壮薬になるんだって



満月蝋梅

蝋細工のように光沢があって、黄色く香りの高いお花
寒くても花の香りで心が温まるよね



源平咲き(梅)

1本の木にピンクと白の梅の花が咲く
白いのが源氏でピンク(赤)が平家かな´艸`

源平咲き分け梅は京都の二条城が有名だね



討つ人も討たるゝ人も諸ともに如露亦如電応作如是観

天文20年(1551)重臣・陶晴賢の謀叛により大内義隆は大内氏館から長門の大寧寺に逃れている
この時、大寧寺住職異雪慶殊和尚の弟子となり、金剛経の経文を引用した辞世をよんで自刃

享年45歳
 
敵も味方も人の命は露のようにまた稲妻のようにはかない



陶軍が大寧寺を包囲すると義隆は自害し、家臣の冷泉隆豊が介錯を務めている
冷泉氏自身も陶軍の中に突撃して討死にしている

その最期は壮絶なものだったと伝えられていて、攻め寄せる敵兵が恐れを成すまで戦い、火をかけた経蔵に入って辞世を詠んだ

みもや立つ 雲も煙もなか空に さそいし風の 末ものこさず

その後、十文字に割腹
内蔵を天井に投げつけて果てたと伝わっている

大内義隆450回大遠忌(2000年)を記念して、義隆卿終焉の地(長門市大寧寺)にあるお墓を原寸大に複製したものが境内にあるんだけど、その奥には十三塔があって、それは冷泉氏などの義隆卿に従い戦死した忠臣の諸精霊のためらしいわ

冷泉氏は、大内義弘の弟弘正が始祖みたいだね

この時の戦いで、山口に攻めこんだ陶隆房がお屋敷に火を放ったんだけど、その火が宮や寺数十ヵ所に飛び移って、栄華を誇った山口の町はあっけなく焦土と化したという



周防、長門、豊前、筑前、安芸、石見、備後…と、七州の大守として、山口に大内文化を築きあげた大内氏一族も、大寧寺で終焉を告げ、事実上滅亡とされている


山門の前には、ケヤキの大木の枝張りの中のヤドリギ

葉で隠れない芽吹く前のこの時期ならではだけど、これでしばらく見納めになりそうだね、とオッパ


ぺこぺこり


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