2月28日散策/三田尻御舟倉跡
三田尻御茶屋の帰りにね
オッパが、歩いてすぐそこだから(*´∀`*)ノって言うから、わたしなんてピンとこなかったんだけど、まぁついて行ってみたわ
「御舟倉」だって
早い話が、むかしの港でしょ?
この日は本当にお天気がよくてね^_^
あ、幸神だって
なんかよくわかんないけど
その御舟倉跡は公園の中にあったの
え、もしかしてここは海だったの???
通堀やそれに通じる船入水路の一部しか残ってないじゃん
埋め立てられちゃったんだ
毛利氏は萩往還の終点地に近かった三田尻のここに、下松にあった御舟倉を移して、萩藩の水軍の根拠地にしたらしいのよ
江戸時代中ごろまで、参勤交代に向かう歴代藩主一行は、ここから船に乗って出発したり、不慮の水戦に備えて軍船が常置されていたり、船の建造や修理も行われていたんだって
(写真/大楽寺・防府市)
むかしは海岸線がもっと近かったみたい
海からの水路を通って御船倉に出入りしていたらしいんだけど、次第に干拓され、海に出にくくなっちゃって、明治維新を迎えると廃止しちゃったのね
御船手組が居住した警固町、水夫や船大工が居住した新丁方といった当時の地名は今も残されているらしいわ
防府市桑山にある大楽寺の釣り鐘は、むかしは御舟倉の鐘楼にあったのよ
時を告げる鐘だって
そっか
御船倉にあった鐘なのね~~~
幕末の海防整備の際には御船倉から海軍局と名前を変えて、欧米から伝わった近代航海術の教練や造船技術の教育も行われて、洋式化が図られていたみたいなの
江戸時代末期にもその重要性は変わらず
(写真/松田屋ホテル・山口市)
坂本龍馬が土佐藩を脱藩して下関に向かう際には、沢村惣之丞と三田尻に立ち寄っているそうよ
えっΣ(・ω・ノ)ノ坂本龍馬???
(写真/サビエル教会・山口市)
来島又兵衛さん達が上京して禁門の変を起こしたのもこの港から行ってるわけで
えぇ???来島又兵衛さんも???
早く言ってよヽ(`Д´#)ノオッパ!
(写真/護国山吉田家墓地・萩市)
下関の功山寺で挙兵した高杉晋作が、決死隊を率いて三田尻の海軍局を襲って軍艦を3隻奪取しているし━━━━━━!!!
高杉晋作~~~!
こらっー!オッパ━━━━━━!!!
(写真/東行寺・萩市)
あ…楫取素彦のお兄さん…
三田尻海軍局の頭取だった松島剛蔵さんは萩で拘留されていて、処刑されちゃうんだよね…
この時、野山獄に投獄されている松島さんらを助けようと、奇兵隊総管だった赤禰武人が、必死の助命嘆願活動を行ったって聞いてるし、
わたしはまだこうした歴史をちゃんと把握しているわけじゃないから、間違っているかもだけど、
高杉晋作も、三田尻の海軍局から軍艦3隻を萩に向かわせて、俗論派を威嚇したということは、他の目的もあったんだろうけど、松島さん達の処刑阻止をすることも、目的のひとつだったんじゃないのかしら…
それから…
楫取素彦が討幕のために諸隊参謀として西宮へ出帆したのも三田尻からよね
その間、承応3年(1654)に毛利綱広が三田尻御茶屋を築造しているわけで
この周辺は大いに栄えたんでしょうね
七卿落ちの際に、三田尻御茶屋はその滞在所として使用されているわけで、その後は御茶屋の敷地内に招賢閣が建てられて幕末の志士達が足繁く立ち寄ったと記録されているわ
なるほど~~~
三田尻が要衝として重視された理由がわかった気がするし、
幕末には多くの志士たちが往来した、非常に重要な役割を担う港だったのね
なんだ~
わたしったら、御船倉ってただのむかしの港だと思っていたわ
お家に帰ったら、もっかい歴史のお勉強しよっと
JR防府駅北口には山頭火
■ふるさとの水をのみ水をあび