三田尻御茶屋・大観楼棟/山口県防府市お茶屋町 | 沸点36℃

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他愛のない日常と歴史散策、主観

2月28日散策/三田尻御茶屋・大観楼棟


大観楼棟のお部屋の床の間には、毛利重就氏の肖像画の掛け軸が飾ってあってね

わたし、いつも混乱しちゃうんだけど…
だって毛利さんっていっぱいいるからブッ

重就さんって、どんな人だっけ???って汗すぐにピンあっっとこないのよ~汗汗汗



後日、ブログで書き出すまで気付かないことはいつものことなんだけど、

オッパともお話していて、あっあっっあっっあっっって気がつくという…(*ノ∀`)ペチッ

それでなくとも、ただでさえ歴史には人一倍疎いからさ━━━━━━苦笑



ついさっきまで天満宮に居たくせに汗

あ、あの毛利さんね(*'∀`*)vって気付いたわ



先日は桑山にある放光山大楽寺で、分骨された重就氏のお墓もお参りしてるんだった汗

あっあっっあのお墓も英雲公と呼ばれていたことが書かれてあったわ

重就氏は、三田尻という街が本当に好きだったのね



長州藩主毛利家の奇数代の廟所は、萩市の東光寺にあって、重就氏の正式なお墓も一番右側にあったわ

元旦早々に見ておいて、すっかり忘れてた~



またあった~ヾ(o´∀`o)ノ

関山月???

もしかして
オッパが書いてみたいって言っていた文字はこうゆうのかしらがびょーん

この廊下には全部で8枚に書かれてあるのよ



御書院南側廊下の奥で、チラッとお庭に目線を落とすと、佐野焼きを使用した水琴窟があるの

水琴窟っていうのは、 今風にいうと手洗い水を利用した音響発生装置…って感じなのかしら

手水鉢の近くの地中に作りだした空洞の中に水滴を落下させ、その際に発せられる音を反響させる仕掛けなの



ここの棟は現存する建物の中で最も古いんですって

今まで何度も何度も改築や増築をされているから、今ある姿は江戸時代後期のものに復元されているらしいわ



ここの襖もとても綺麗でね
こういった立涌オモダカ紋様や、金押のオモダカ紋様、詰所と云われるお部屋には獅子七宝模様が施されていてステキなのほのぼの



お二階へ上がったんだけど、ここの階段、超~~~急なのあ゛ぁ゛っダッシュ

どうやらこの階段は、女中さん達がお食事を運んだりする階段らしくて

えへへ´艸`階段間違っちゃった汗



こっち側から入るのね汗

わぁ(*'∀`*)vおんぷなんか素敵きらきら(赤)きらきら(赤)きらきら(赤)
お二階のお部屋の入り口がこうなってるといいよね!φ(..)メモメモ

実はこのお二階のお部屋

文久3年(1863)に、京都の政変で三条実美ら7人の公卿が長州へ逃れてきたときに(七卿落ち)この三田尻御茶屋の大観楼棟のお二階に、ってここじゃん↑↑約2ヶ月滞在していたの・・・・・!!!!!!!!!!



その時に毛利敬親や高杉晋作らと面会しているのよ

高杉晋作びっくりびっくりびっくりブッ



ど、どこっ!?!?!?
どれが高杉晋作━━━━━━!!!

その頃、中央での尊攘派の失脚により、居場所を失った各地の若者たちが続々と長州藩を頼ってきたらしいのよ

みな、三田尻に集まってきて、七卿の護衛についたんですって

例えば、う~ん…

あっ、土佐の中岡慎太郎とか



さらに、敷地の北側に招賢閣が建てられてあって(三田尻御茶屋の一時的な別称という説もあるけどね)、三条さん達の会議場所となったらしいわ

招賢閣には幕末の志士達が足繁く立ち寄ったみたいだけど

がびょーん…早い話が、
尊王攘夷派の拠点になったのね

翌年の元治元年(1864)の禁門の変の後には廃止されちゃって…

さらに明治維新後に解体されちゃったみたい

でもここ、三田尻御茶屋そのものは明治時代以降も毛利家の別邸として使用されているのよね



大正5年(1916)には、毛利家の新たな本邸が防府市多々良に完成しているから、それは多々良邸って呼ばれるようになって、それに対してこの三田尻御茶屋は三田尻邸って呼ばれるようになったらしいわ

このお写真の反対側、南側の窓からは、かつては海が見えていたみたい



さて、下りる時はこっち側の階段から下りようかね

……


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さっきと変わらないよねブッ


ぺこぺこり