周布政之助顕彰碑/山口県山口市周布町 | 沸点36℃

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他愛のない日常と歴史散策、主観

11月23日散策/周布政之助顕彰碑

初めてのいい夫婦の日は、結局、食べて飲んで終わってた( ´艸`)ブッ

ビールしか飲めないけど、飲むことは大好きだしね(*'∀`*)vbeer
毎日、三度三度お料理してると、せめて週イチで外食したいっ!!ってなるものなのよ

それが居酒屋さんだとなお嬉しいわけで♡



ずっと行ってみたかった「やきとん政之助」

でね、な~んと、このすぐ近くに周布政之助の石碑があるっていうからさ~

連れてってもらったの

この時点で既に日付は変わっていたんだけど、最近はこうゆう史跡巡りが楽しくて、楽しくてにこっLOVE



山口って街灯が少ないよね…(´・ω・`)
かろうじて見えるけど、ホントは真っ暗なの

とにかくおっきいの
わたしが見てきた石碑の中では一番おっきいかもきらきら(赤)

オッパは真っ暗な中、隣の墓地で何か言ってるしブッコワイヨォ~

またいつか、明るい時に来ようってことになって



翌日、僅かな時間で行ってみた(*ノ∀`)ペチッ

だって近所なんですもん↑↑



周布政之助って、萩藩士の子として生まれるんだけど、わずか生後6ヵ月で家督を継いでるのよねポイントkirakira

お家は代々、長州藩毛利家に仕えた家柄だったそうよ

藩校「明倫館」に学び、24歳で藩の蔵元検使暫役、29歳で政務役に抜擢
村田清風の跡を継ぎ、藩財政の立て直しに力を注いでいた、みたいだけど

保守派と対立した後、実権を握ったらしいけど、お酒の失敗話をいっぱい聞いてるわああっ汗



吉田松陰や久坂玄瑞、高杉晋作らを認め、

また、洋学を重視し、大村益次郎を登用したり

伊藤博文ら長州ファイブをイギリスへ密航留学させたりして

若い改革派のリーダー的存在な人なわけねほのぼの



政之助さん、お酒に酔った勢いで、投獄中の高杉晋作に刀振り回しながら会いに行ったりして、謹慎処分を受けてたりしたんでしょ?´艸`汗

高杉晋作がこの日の出来事を、日記に残しているのよね…

為国産破家亦軽 不辞世上喚狂生 友人猶有不忘義 昨日門頭呼我名

(国のために家が潰れても、家などは軽いものである
世間が僕を狂生と呼んでも構わない
しかし友人の中には、義を忘れない者がいた
昨日獄の門まで来て、僕の名を呼んだ)


政之助さんから
「これしきに堪えられぬようでは防長の政治はできんぞ」って激励されてることを、高杉晋作は後に涙を流しながら語ったそうよ

きっとこれが、政之助さんからの高杉晋作に対しての遺言になってしまったのかもしれないわね



そんな中、長州藩は禁門の変や長州征伐、外国艦隊の下関砲撃などでとことん叩きのめされちゃうのよね…また、藩の実権も俗論派に握られてしまったりして

9月25日、政之助さん、
失意のどん底で自刃してしまうのよね

萩藩をめぐる状況は大きく揺れ動いてしまって、藩内でも争いが絶えなかったみたいなの

責任を感じてしまったのね…

享年42歳だって

偶然なのか、その日は井上馨が近くの中園町で重傷を負ってるのよね

家人(吉富家)が、井上馨の容態を見に出掛けた直後だそうよ

大きな顕彰碑の前には共同墓地があって、政之助さんの墓碑銘「麻田公輔」で、お墓がある



切腹とも伝わってるみたいだけど、首をかっ切ったと聞いてるわ

現場は、身を寄せていた吉敷郡矢原村(現 山口市矢原)の大庄屋、吉富家の庭先なのか畑なのか…

同じ墓地には、その吉富家のお墓も



維新後、有志の方々が、政之助さんの偉勲を永久に伝えるため、自刀の地の近くを選んで顕彰碑が建立して「周布公園」となって整備されたみたい

そして
昭和40年になって、ここの地名を「周布町」に登録しているわ



長州藩の藩論が固まる前に、その混乱の中亡くなってしまわれたけれど、高杉晋作らがのちに表舞台に立ち上がり活躍出来たのは、政之助さんが居たからこそだと思うの

因みに余談だけど、わたし、政之助さんとお誕生日

同じだわ━━━(゚∀゚)━━━!!!



政之助さんは死の間際に、こう言い残しています

私の屍を孔道のそばに埋めよ
敵兵が来たら我が霊が叱りつけて退けよう


ぺこぺこり