八坂神社•築山神社/山口県山口市上竪小路 | 沸点36℃

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他愛のない日常と歴史散策、主観

10月11日散策/八坂神社・築山神社


八坂神社の境内地は築山館といわれ築山神社などもあり、かつて大内氏が政務をとっていた頃の勢力を偲ぶことのできる場所である
大内教弘が築山殿と称されていた時代に造られたと考えられる



■八坂神社の朱色の大鳥居



■参道途中にある古い写真館



山口を訪れた連歌師宗祇に「池はうみ 木すえは夏の みやまかな」と詠んだものがあることから、立派な庭園があったとおもわれる



■八坂神社

応安2年、24代大内弘世が京都の八坂神社を勧請した
現在の本殿は永正17年に30代大内義興が再建したもので、三間社流造りの見事なものだ

室町時代の様式をよく伝えていて国の重要文化財に指定されている



本殿が再建された地は、鴻ノ峰の山口大神宮境内にあったが、元冶元年、江戸時代末に毛利敬親によって現在の場所に移された

本殿には13個の変化に富んだ蛙股がある
この八坂神社の蛙股は形が優美で、他に類例の少ない珍しい図柄、花や果物、雲などが彫刻されている



築山館は大内氏滅亡後朽廃したが、園池の跡は残っていたといわれている
しかし、この池も江戸時代中頃周囲の築地の土をもって埋めてしまい、現在のようになった



■筝曲組歌発祥之地の石碑

昭和41年建立
碑の文字は佐藤栄作

大内義隆は京から迎えた北の方(正室)をなぐさめるために、しばしば都から下向している公卿や楽人などを招いて詩歌管弦の遊びを催していたが、ある時その席で七人(則春、清政、春孝、重頼、高雅、行道、是正)の若い殿上人が一首ずつ歌を作り、つぎつぎに筝で弾き歌いすることが行われた
これが筝の組歌(歌の組み合わせの意)の起源といわれている

最初の組歌「ふき」は七首だったが、やがて一人(行道)が早世したため以後の曲では六首になった、という伝説がある

この組歌が、筑紫筝を大成した賢順に伝わり、八橋検校は賢順の弟子の法水に学んで工夫を加え、今日の筝曲の創始につながったと云う



■築山神社



■大内氏月見之松記念の石碑

月見松とは大内氏時代以来の名木だが、安政3年に焼失
そののち友津田典が、焼け残った根元部分の根より三丈上の所を切り取り、それを額の縁とし、月見松の姿を尾張人湟宏に描いてもらい、近藤芳樹が記を添えたものが作られ、現在八坂神社楼門に飾ってある



■大内義興の顕彰碑



■「池はうみ こずゑは夏の 深山かな」宗祇の句碑

句は宗祇の「老葉集」に収められている
文明12年、大内政弘の頃のこのときの旅行は「筑紫道記」として書き表されており、当時の大内氏領国内の様子がわかる

宗祇は長享3年に再び山口を訪れ、殿中で9回の連歌会を催すほか、伊勢物語の講釈をして「伊勢物語山口抄」を残している



■伝・市川元教の墓

毛利元就に仕えた市川経好の子
天正6年、大友氏と結び反乱を企てようとして露見
父により自刃させられる

元教は謡曲采女の山郭公の小鼓が得意だったので、以後山口では采女を謡うことを控えたといい伝えられている



■盃状穴が刻まれた巨石

盃状穴は、性のシンボルとして、死者をよみがえさせることや、豊作を願うことを意味する刻印と考えられている

今日でも、一種の「願」をかける場として使用されている
ヨーロッパでは、田舎の女性が男児出産を祈る時に、盃状穴を訪ねたり、夜間にバターを盃状穴に流しこんで祈れば、その年の家畜と農業の生産高が上がるという信仰が続いている

この盃状穴の歴史は古く、先史時代のヨーロッパの岩陰に刻まれているものや、2000年前頃の朝鮮半島で盛んに造られたお墓(支石墓)の蓋石に刻まれていることがよく知られている

日本では、昭和55年に発掘調査が行われた山口市大内「神田山石棺郡」の箱式石棺墓の墓石に刻まれた盃状穴が最初の発見である



■稲荷神社



毎年7月20日から行われる山口祇園祭では、室町時代から受け継がれてきた鷺舞神事が奉納される


ぺこペコリ