聖サビエル記念公園/山口県山口市金古曽町 | 沸点36℃

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他愛のない日常と歴史散策、主観

10月11日散策/聖サビエル記念公園


陸上自衛隊山口駐屯地の防長尚武館前に「日本初のクリスマス発祥地がこの付近」と説明板に記載されていた

「そういえば」と、
サビエル記念聖堂ではなく、「サビエル公園」の石碑がこの近くにあったことを思い出し、早速行ってみた



駐屯地からほど近い距離に、やはりあった



■聖サビエル記念公園

日曜日だというのに閑散としている



大きな十字架の石碑が建っていた
その前には丸い花壇があるが、過去には花時計でも造られていたのだろうか……



■ビリヨン神父の胸像

1868年10月に来日し、神戸・京都・山口・萩・奈良などで布教活動の傍ら、キリシタンの史跡の調査研究に没頭し、記念碑を建てるなど殉教者の顕彰に努めた人物である



■聖サビエル記念碑

フランシスコ・サビエル(1506~1552)は天文18年にキリスト教を布教するために鹿児島に上陸

天文19年11月、京都へ向かったが戦乱で乱れていたため、天文20年4月、政情の安定した山口に再び訪れ、大内義隆に布教の許しを願いでた
義隆は許可を与え、サビエルの住居に廃寺であった大道寺を与える
ここを宿所として、サビエルは毎日街に出て布教に当たっていたといわれている



明治22年フランス人アマトリウス・ビリヨン神父は、山口におけるサビエルの遺跡、特に大道寺跡について探求し、現在の公園の地をその跡と考え、有志の協力で土地を買い求めた



(道場門前説明板より)

大道寺の実際の位置は未だに疑問が多く、最初にザビエルが受領した廃寺の名が大道寺だったのか、トーレスが建て替えた寺に大道寺と名付けたのかも不確定である

推定の際の根拠の1つとなった「山口古図」の記載にも疑問の声があり、1998年に行われた発掘調査でも場所を特定するには至っていない

現在、総合的に見て公園の敷地外である可能性が高いと言わている



■龍福寺参道にあるのはサビエルの井戸を再現したもの



■サビエル記念聖堂前の井戸とサビエルの像


そして大正15年10月16日、高さ10mにも及ぶ花崗岩にサビエルの肖像をはめ込んだサビエル記念碑が建立された



しかし、この碑のサビエル肖像の銅板は、第二次世界大戦中に供出されてしまう

現在の肖像は、昭和24年サビエル来山400年記念祭を期し、サビエル遺跡顕彰委員会より委嘱された彫刻家河内山賢祐氏により作成されたものである



大正十三年十二月起工
 
聖師渡来四百年祭にあたり羅馬法王特使ギルロイ枢機卿により序幕復興す

昭和二十四年六月二日
一五四九年渡来
一五五〇年来山



■大内義長の裁許状

天文20年9月サビエルは弟子トルレスらに後事を託し九州へ去った
その後陶氏の乱が起こり大内義隆は討死

陶晴賢が大友義鎮の弟をむかえ大内義長と名のらせて大内家を継がせる
 


この碑は、大内義長がトルレスに寺院建立の許可を与えた書状を銅板にしてつくられたものである



■亀山公園の裁許状石碑

この裁許状は複製したものであるが、こちらもサビエル記念聖堂前の山の中腹にあった



余談だが

現在の山口市湯田温泉に生まれ、文学史上に大きな足跡を残した近代詩人中原中也の祖父で、医師中原政熊は66歳で亡くなっているが、葬儀はキリスト教の教会で行われている


ぺこペコリ