4年生ブログ No.40 山下貴之「救われた命をどう生きるか」 | 立教大学体育会サッカー部日記

立教大学体育会サッカー部日記

立教大学体育会サッカー部のマネージャー日記です☆
2013.3~

No.40 山下貴之(MF/國學院大學久我山高校)

 

 

 

 

 

 

 

 

 
プロフィール
 
プロフィール
学部学科:文学部文学科
出身チーム:國學院大學久我山高校
ポジション:MF
背番号:67
 
他己紹介
たかとは高校から同じだか、一緒にいればすごい景色を見せてくれる。TikTokでバズったスーパーゴールを決めたり、高校サッカー選手権令和初ゴールを記録したりと。たかと2人で派遣のバイトに行った時は、全く知らない男の人に『山下貴之さんですよね?』と声をかけられていた。また、高校の柔道の授業では、笑顔を見せず一切の邪念を許さない寡黙な先生の下で、私と組み手をしている際に微笑んでしまい、たかは一瞬にして私の目の前から消えていった。柔道場の外までの10数メートルの距離を引きづられて行った。あの山下貴之が道着の襟を掴まれ無抵抗で引きづられてた。一生忘れない光景だ。
 
そんなたかもサッカーになれば一際目立つ。しなやかなボールタッチでピッチを縦横無尽に駆け回り、賢いサッカー脳と卓越したテクニックで見るものを魅了する。今年はピッチでプレーできる時間が少なくなってしまったが、ピッチの外から客観的な視線でチームを分析して支え続けた。色んな経験を共にしてきたたかが引退を目の前にどんなブログを書くのかとても気になるところだ。
      山下陽太郎(DF/國學院大學久我山高校)
 
 

 
「救われた命をどう生きるか」
 

メンディー紹介ありがとう。

今回ブログを担当させていただきます。

山下貴之です。

 

これまで多くの先輩方や同期のブログに心動かされ、自分は最後にどんなブログを書いて引退するのか少し楽しみでした。そのときに思い描いていたものとは全く違う文章になりそうです。

 

それでも、今年1年間経験したこと、ありのままの想いを書きました。

お時間があるときにぜひ読んでください。

 

それでは本題へ

 

 

 

 

目が覚めたとき、目の前には家族がいた。

とても嬉しそうで、どこか心配そうな顔をしていたのをよく覚えている。そのとき、自分の身に何が起きていたのかは全くわからなかった。

 

 

「心肺停止になって3日間意識がなかったんだよ、目が覚めて本当に良かった」

 

 

長い眠りから覚めた自分に看護師が言ってくれた言葉を昨日のことのように思い出す。

 

 

 

今年1年、全てが想定外だった。

 

 

「プロサッカー選手になる」

「チームを関東1部に上げる」

 

3年目のシーズンが終わったときに来年の目標を定めた。チームは関東2部に昇格を決め、天皇杯予選を3連勝し、自分自身は過去最高に調子が良い状態でシーズンを締め括った。これ以上ない最高の締め括りだった。

 

3年目のシーズンはこれまでのサッカー人生の中で最も順調だった。調子の浮き沈みも少なく、サッカーを常に楽しめていて、自分がどんどん上手くなっていく実感があった。

 

「プロサッカー選手になる」という目標を立てたのも自分では驚きだった。久保庭(4年/ジェフユナイテッド千葉U-18)あたりも書いていたと思うが、周りのレベルが上がるにつれて本来のサッカーの楽しさを忘れてしまうあの感覚。高校3年間はチーム内でも常に自分より上手い選手たちに囲まれて、上には上がいるということを嫌というほど思い知らされた。大学サッカーを始めるかすら悩んだのも、このままじゃプロにはなれないと踏んだからである。

 

それでもサッカーは好きだったし、4年間で自分がどこまでいけるのかを試したいと思って立教サッカー部に入部した。そんな自分がこの目標を立てられたことが純粋に嬉しかった。

 

だからこそ、大学サッカーラストシーズンである今年1年間に懸ける想いはとてつもなく大きかった。自分の目標に向かってチャレンジできることが楽しみで仕方なかった。

 

 

 

2023年1月30日

ようやく待ち侘びたシーズンスタートの日。

思いがけない出来事が起きる。

 

朝霞の陸上競技場で例年通りランテストから始まった。

そのランテスト中に倒れてしまった。

 

 

心室細動を起こし、「心肺停止」となった。

 

 

部活の仲間、スタッフが人工呼吸・AEDをしてくれて、救急車で運ばれているときに自己心拍を取り戻した。

 

 

意識はないままだった。

 

 

その日から3日間は意識がなかった。

倒れてから3日後の2月2日に意識を取り戻した。

 

 

命を助けてもらった。

 

 

「あと数秒、数十秒対応が遅れていたら命はなかったかもしれないよ」と何人もの先生に言われた。AEDが近くにあったこと、正しい処置をしてくれたこと、救急車がすぐ来てくれたことなど、数えきれないいくつもの奇跡が重なって、今自分は生きることができています。AEDがあることの大切さ、正しい処置をしてくれたことの感謝を身に沁みて感じています。

 

 

また、命が助かったとしても意識が戻る確率は数%、意識が仮に戻ったとしても後遺症が残らない確率は数%だったと説明されました。立教のみんな、スタッフの方々、救急隊員・さいたま病院・順天堂医院の方々、家族、仲間、友人、本当に多くの人のおかげで今こうしてブログを書けていると思います。命を救ってもらったこと、感謝してもしきれません。

 

 

倒れた日の朝から意識を取り戻すまでは全く覚えていない。その日グラウンドに向かった記憶も、ランテストの記憶も、全て覚えていない。

起きたら病院のベッドにいて、色んな管が身体中につけられていた。

 

起きた瞬間は「なんで俺ここにいるんだろう」そんな感覚だった。

担当の看護師が「心肺停止になって今、目が覚めたんだよ」と言ってくれたが、状況は理解できなかった。頭では理解しようとしても気持ちが全く追いつかない。

 

目が覚めたら3日が経っていた。倒れた前日くらいから目を覚ます日までの記憶が全て飛んでいて、今でもその記憶は思い出すことができない。LINEの通知が600件来ていて、それを見たときに何か相当なことが起きたんだろうと思ったが、それでも少し他人事のような感覚だった。

 

 

 

途中、病院を転院したが、合計40日ほどの入院をした。

 

退院する日はもちろん読めない。毎日毎日何個も検査をして、友達はもちろん、家族すら面会を許されず、6時起き、9時消灯の生活を送った。

 

誰にも会えない、もちろん病院からは1歩も出れない。味の薄い病院食にも慣れ、看護師もリハビリの先生達もみんな顔見知りになっていた。外は冬から春に変わろうとしていた。そんな季節の変化すら感じることのできない病院で始まった最初のリハビリは、小さな子どもでもできるような記憶力テストや真っ直ぐ歩くことだった。

 

 

「細かい検査をしてみないとわからないけどサッカーはもうできないと思う」

意識が戻ってから数日後、医師から言われた。

 

 

「もうサッカーは十分頑張ったよ、今まで楽しませてくれてありがとう」

両親が自分に向けて言った。

 

 

頭が真っ白になった。

そのときの記憶がないから後悔すらさせてもらえない。今まで人生の中心にあった大事なものが自分の知らないところで奪われた。

 

涙を流しながら主治医の先生に「まだサッカーを諦めきれません」と伝えた。

 

主治医の先生もなんとかサッカーができる方法はないかと様々な方法を考えてくれて、順天堂医院へ転院することが決まった。

 

この時点で、サッカーにもう一度復帰する確率はほぼ0%だろうという雰囲気が漂っていたことをなんとなく感じ取っていた。

 

でも、まだ0%と決まったわけではない。もう一度選手としてプレーするために、目標を達成するために、ほんの僅かな確率を信じた。長すぎる入院はそのわずかな希望を信じることでしか乗り越えられなかった。

 

入院してから10日ほどでさいたま病院から順天堂医院に転院した。転院先の順天堂医院で細かい検査を毎日毎日してくれて、何とかサッカーに復帰できる方法はないかと親身に考えてくれた。

 

医師の方はよくエリクセンの話をしてくれた。心肺停止になっても身体にペースメーカーを埋め込んでもプレーをしている選手が海外にはいると。日本にはいないのかと絶望感を持つのと同時に、世界的に有名なプレーヤーも同じような経験をしていることに少しだけ励まされた。高校の親友はLINEの名前を山下エリクセン貴之にしていた。それはちょっと違うなと思ったけど案外気に入るくらいエリクセンのことが好きになった。

 

 

1ヶ月ほどに及んだ細かい検査を終えて、手術をすることが決まった。倒れた日から2ヶ月が経っていた。具体的な内容は控えさせてもらうが、かなり大きな手術だった。

 

 

2回に及んだ手術は無事成功し、身体には痛々しい傷を残しながらももう一度サッカーに復帰できることが決まった。

 

 

自分を診てくれた病院の先生方全員が「もう一度サッカーに復帰できるのは本当に奇跡だ」と言ってくれた。リハビリの先生は「山下くんのことを同じ境遇になった人たちに必ず話すよ。気持ちはもう前を向いていると思うけど、なんかあったらいつでも相談に来てほしい」と言葉をくれた。

 

 

このブログを見ているかはわかりませんが、改めてお礼を言わせてください。もう一度、サッカーに復帰できたのは間違いなくさいたま病院、順天堂医院の方々のおかげです。元気がなくて落ち込んでいるときに力強い言葉をかけてくれたこと、病室で1人涙を流しているときに優しい言葉をかけてくれたこと、他にも多くの出来事を覚えています。一生忘れません。ありがとうございました。このブログが届いてくれたら嬉しいです。

 

 

倒れてから退院するまでの約40日間。

今でも思い出したくないことばかりだ。

人生の中で最も感情が揺さぶられ、メンタルがボロボロになり、多くの人に支えられ、そして、自分を信じ続けた期間だった。間違いなく、人生の中で最も長くて苦しい期間だった。

 

「もうピッチに立つのは厳しいんじゃないか」と何度も思った。その度に入院してからつけ始めた日記に「絶対に復帰する」と書き殴り、何とか自分自身を保った。孤独な病室で一睡もできずに枯れるほど泣いた夜は何度もあった。

手術後の味わったことのない痛みや吐き気を忘れることはないだろう。

 

 

ピッチに戻ってきた。

グラウンドに電車で向かっているとき、部室で同期と話しているとき、スパイクの紐を結んでいるとき、ボールを蹴ったとき、全てが幸せだった。

 

リハビリからのスタートだった。

もう一度あの舞台に立つために、そして、目標を達成するために、約2ヶ月間リハビリに専念した。サッカー人生の中であまり大きな怪我をしたことのない自分にとって、このリハビリ期間は結構しんどかった。また、怪我をしたわけでもなく、前例があるわけでもないからこそ、正解を探しながら自分の身体の状態を細かく管理して、多聞(4年/立教池袋)と櫻さんと綿密にコミュニケーションを取り、なるべく早く体力を戻し、復帰できるように努めた。

 

この期間、多聞には本当に励まされた。早く復帰したくて「もう復帰できるからやらせてくれ」と言って何度多聞を困らせただろうか。俺の目標は復帰することじゃない、時間がないと焦っていた自分にいつも力強い言葉をかけてくれた。改めて感謝を伝えたい。

倒れたときに命を救ってくれたこと、

リハビリ期間で俺を支えてくれたこと、

本当にありがとう。

 

 

2か月後、順調に復帰し、復帰後初の練習試合がやってきた。

1-0でチームは勝利した。その1点を自分が決めた。色んなものが込み上げてきた。ただの練習試合だったけど、高校サッカー開幕戦で決めたあのゴールよりも、天皇杯予選のロスタイムに決めたあのゴールよりも自分の中で1番記憶に残るゴールだった。あのとき、ガミさんも多聞もチームメイトもすごく喜んでくれていて、苦しかった40日間の入院生活も、大きな手術も、2ヶ月間のリハビリも全てが報われた気がした。

 

 

次の週の関東リーグの試合にはスタメンで出場した。チームは3試合ぶりに勝利した。調子は良くなかったけど、もう一度ここの舞台に戻って試合に出れたこと。小堀(4年/立教新座)をはじめとする応援団が「おかえり」と歌ってくれたこと。試合後にサッカー部の先輩方やたくさんの人たちが連絡をくれたこと。両親にもう一度試合を見せられたこと。

本当に嬉しかった。

 

 

2試合目もスタメンで80分出場した。調子は戻ってなかったけどまだ関東リーグ6節目と7節目。自分の目標を達成するにはまだ大丈夫だと言い聞かせて、ここから巻き返せば間に合うと信じていた。

 

 

この後くらいから身体に違和感を覚え始めた。

体力が全く戻らない。試合前のアップで1人だけクタクタになって試合に出る。疲れだけが気になってプレーに集中できない。疲れがどんどん溜まって足が鉛のように重くなる。この時期は本当にきつかった。どんなに頑張っても戻ってこない感覚。

 

離脱する前までのチームでの立ち位置と現実のプレーにギャップを感じた。チームを引っ張らなきゃいけない立場の自分が同じポジションの選手たちとレギュラー争いをしていた。前までの自分と何かが違う。前例がないからこそ、どうすれば戻るのかも、何を頑張ればいいのかもわからない。それでも、「もっとがむしゃらにやれば絶対に調子は戻ってくる」そう信じて、練習後に櫻さんに個別トレーニングをお願いした。きつい練習後も、関東リーグの試合後でみんながストレッチをしているときも、はやく調子を元に戻すために。ただがむしゃらに取り組んだ。睡眠も食事もこれまで以上にこだわった。でも、全く変わらなかった。むしろ、その違和感はもっと膨らんでいた。「多分体力の問題じゃないな」と薄々感じ始めていた。

 

そしてアミノバイタルカップ初戦を迎えた。4年間で最後のカップ戦。全国に出るにはこの大会しかない。そして、自分をアピールする絶好の大会。モチベーションはかなり高かった。最高の準備をして試合に挑んだ。しかし、状態は何も変わらず、前半からずっと身体がきつかった。徐々に頭がぼーっとしてきて、視界が暗くなっていった。気づいたら自分が最終ラインにいることだけがわかったからラインをあげようと走り出そうとした瞬間。また倒れてしまった。

 

幸い、心肺停止ではなかった。

すぐに意識を取り戻した。

「まだやれます」

ガミさんに伝えた。

ガミさんは「タカ、変わろう」と。

もちろん交代だった。

 

交代してから次の日の病院に行くまでの間、なんとなく自分の中で察していた。

「ああ、もう終わりなのかな」内心そう思っていたけど、それでも信じたくなくて、熱中症とか貧血だと信じ込んだ。

そう信じて次の日病院に向かった。

 

 

この日のプレーがサッカー選手として最後の試合となった。

 

 

 

病院に行った。

病室に呼ばれるまでの数時間。

深く考えないようにしたけど、頭の中で最悪のパターンだけがよぎった。

何度も何度も神様にお願いした。

 

病室に入ったときのことは鮮明に覚えている。

あの時の病室の重たい空気。

担当の医師の雰囲気。

言われる前に察した。

なぜか涙は出なかった。

 

結果的に、原因は重いものではなかったけど、競技でサッカーは続けられないことになった。ドクターストップというやつだ。

悔しいとか辛いとかを通り越して残ったのは、虚無感だった。

 

 

徐々に現実に目を向けようとしたけど、難しかった。

しばらく部活を休んでサッカーから離れた。

サッカーを忘れさせてくれたこの期間は心を少しだけ楽にさせてくれた。

 

 

6月末に引退した。

選手として関わることはできなくなった。

 

 

徐々にグラウンドに足を運んだ。

みんなの前では何も変わらず、いつも通り明るく振る舞った。

 

でも、本当はかなり心が苦しかったのが本音だ。

グラウンドに行くと多くの感情が自分の中に入り乱れてくる。

 

しばらくは自分を苛む日々だった。

 

毎練習中、少なくとも1回は「俺は今ここでなにをしているんだろう」「なんでプレーしてないんだろう」と思った。楽しそうにサッカーをしているみんなとサッカーができない自分をどうしても比べてしまう。練習中の孤独な時間はとても苦しい。ピッチの外に置いてあるベンチに座っている自分が惨めに思えてくる。ピッチの中で貢献できない自分がこの組織に所属している意味、グラウンドでただ練習を外から見つめて帰るだけの日々を過ごしている意味がわからなくなった。

 

ピッチの中にいる選手たちは週末チームを勝たせようと目の色を変えて練習し、ケガをしている選手は早く復帰しようとリハビリに励んでいる中、俺は何をしているんだと。身体も元気でどこも怪我をしていないのに、何故プレーできないんだと。

 

 

そんな思いを感じながらも、家から片道約2時間かけて足を運んで、ピッチに行くことに意味はあるのだろうか。

 

 

グラウンドに向かう電車の中、1人で練習を見つめているとき、眠ることのできない夜、色んなことを考えて、色んなことを思い出した。

 

去年の4年生は後輩である自分たちに関東2部の舞台を残して卒団していった。もうあの舞台に立てないと分かっていながらも立教のために必死で戦っていた。

 

2年前、関東リーグ残留の切符をかけた入れ替え戦の前に怪我をしてしまった将吾くん(22卒)のこと。将吾くんが1年間つけていた背番号を背負うことになった自分に悔しい気持ちを抱えながらも、試合前も試合後も励まし、応援してくれた。

 

3年前、大怪我をしてしまい、ラスト1年を選手ではなく、学生コーチとして立教のために闘った浅井くんのこと。復帰するまでの間、浅井くんの言葉に何度も何度も励まされた。

 

それだけではない。

メンバー外になっても変わらずにチームのために声を張って貢献する横井(4年/初芝橋本)の姿。ピッチ上で仲間を常に鼓舞するレオ(4年/桐光学園)。いつも先頭でチームを応援する小堀。名前を上げ出したらキリがないけど、この組織には素晴らしい先輩方や同期、後輩、スタッフの姿があった。

 

俺もできることをしよう。そう思った。

シュート練習のボール拾いでも、試合中の声がけでも、リハビリの選手たちの手伝いでも。

何かチームのためにできることはないかと思い、行動した。時には飛さんにお願いして山梨で行われたアウェーの試合を応援に行った。壁にぶつかっている後輩に、怪我をして落ち込んでいる同期に、声をかけた。

 

 

 

それでも、みんながプレーしてるのを見て、悔しくて情けなくて、もどかしかった。試合前に極限まで集中力を高めて試合に挑む準備をしている姿、苦しい状況でもがむしゃらに戦っている姿を見て、自分だけあの日から取り残されている感じがした。勝ったあとのみんなの表情、勝ちロコの雰囲気、一体感、自分だけが混ざれていない感じがした。負けたあとの静けさ、己と向き合い、次に向けて良い準備をしているみんなを見て、自分の存在意義を見失った。試合前、モチベーションを上げるために聴いてたプレイリストを開くことはなくなった。サッカーに関する話題は耳に入れないようにした。知り合いや試合したことのある選手がプロに内定したリリースは見たくなかった。弟が部活を終えて試合から帰ってくることも、両親が弟の応援に行くことも、地元の友達にサッカーどんな感じ?って聞かれることも全てが嫌になった。

 

 

1人になると涙が出てくる。

なんで俺なんだろうって思った。

夢でありますようにと何度も祈った。

夜は眠れなかった。

目を瞑るとサッカーのことで頭がいっぱいになる。考えないようにすればするほど頭の中で巡りまわる。一睡もできない日が続いた。

 

 

選手としてチームに貢献したかった。

もう一度あの舞台で試合をしたかった。

自分がどこまでいけるのかチャレンジしたかった。プロになれてもなれなくてもサッカーを辞めるときは自分で決断して、納得した形で終われるものだと思っていた。大学4年のラストシーズンの6月にサッカーを取り上げられるなんて思いもしなかった。

 

 

この1年間は今まで生きてきた人生の中で最も辛くて、最も濃かった。

 

 

心肺停止になったこと。

生き返る確率が数%の中で、3日後に目を覚ましたこと。

後遺症がなかったこと。

サッカーはできないと言われたこと。

ペースメーカーを入れずに済んだこと。

2度手術をしたこと。

医者にも厳しいと言われた中で、

ピッチに戻れたこと。

関東リーグ、アミノに出れたこと。

また倒れてしまったこと。

6月末に選手を引退したこと。

今、生きていること。

 

17年間のサッカー人生は思いがけない出来事によって幕を閉じた。

 

結局、目標には届かなかった。

幼い頃からの夢はチャレンジしきれなかった。

チームで立てた目標も達成できなかった。

一生悔いが残ると思う。ていうか必ず残る。

 

 

それでもここまでサッカーを続けてきて良かったと思う。サッカーを続けて来たからこそ、味わえた想い、多くの感情、そして、素晴らしい仲間たちに巡り会えた。

 

 

高校の親友たちは倒れたその日に神社を回ってくれて、退院してすぐに千羽鶴を届けてくれた。サイズをミスったらしく、かなりでかくて、存在感抜群なのが逆にいい。これを見れば、これから起こるどんな出来事も乗り越えられる気がする。

 

 

立教のみんなは倒れてから意識を取り戻すまでも入院している間も退院してからもすごく心配してくれた。

「たかが戻ってくるのを待ってる」

この言葉に救われた。

心が折れそうになった時、何度も踏ん張れた。

本当にありがとう。

 

 

立教のスタッフの方々

適切な処置をしてくれたおかげで命が救われました。本当に感謝しています。

そして、

入院中も退院後もリハビリ中も復帰後も、

プレーできなくなってからも、

自分の居場所を作ってくれた。

もう競技でのサッカーはできないとガミさんに伝えたとき、ガミさんからのLINEに涙を流した。泣きすぎて返信できなくて、既読無視になってしまったことに申し訳なさを感じている。笑

 

他にもたくさんの連絡をもらった。小学生の時の恩師、立教サッカー部の先輩方、中学時代のチームメイト、試合会場でたまたま会った知り合い、みんなが心配してくれた。

 

 

本当に多くの人が心配してくれて、そして、生きていることを喜んでくれた。このブログを書きながら、今生きているのは当たり前じゃないこと、自分だけの命ではないことを改めて実感しています。

 

 

 

振り返ってみると、本当に壮絶な1年間だった。

言葉には出来ない感情や思い出したくもない出来事を何度も経験した。

 

これからどれだけ月日が経っても、悔しさがなくなったり、やり切れない想いが消えていったりすることはないんじゃないかと思う。

 

それでも、今シーズンが終わるまでの間は、その想いを胸のうちにしまって、いつも通り明るく、チームのためにできることをしたい。

 

 

それが大好きなこのチームに対する恩返しだと思うから。

 

 

 

こうして1年間を振り返ることができるのも、色んな感情を味わえたのも今生きているからだと思っています。

 

22年間の人生で最も辛かったこの1年間に何か意味をもたせられるように、この1年間の出来事が自分を強くしてくれたと何年後かに振り返られるように、次の一歩を力強く踏み出そうと思います。

 

 

生きていれば、命があれば、またチャレンジできる。今、命があることに、そして、それが当たり前ではないことに感謝して、みんなに救ってもらった命を大切に生きていきます。

 

 

 

最後に感謝を伝えてこのブログを締めさせていただきます。

 

後輩たち

1部に上げれず、最後の年に選手として貢献できなかったことを申し訳なく思います。慶太(3年/FC東京U-18)は試合中注意してくれるし、庄司(3年/桐光学園)は俺のシュートをアシストにしてくれるし、圭佑(3年/國學院大學久我山)は高校からずっと一緒にやってきたし、水野(2年/武南)はまじで足速いし、他にもいい奴いっぱいいるけどキリがないからここらへんでやめとく。結構みんな好き。来年頑張ってな。

嵯峨(2年/三菱養和SC・Y)、俺の分まで頼んだ。家遠いのにオフシーズンは2人で自主練しに行って、授業中は1番後ろの席で自分達の試合の反省と相手チームの分析をして、プレー中はいつもいいパスくれて、合わないときはお互いに要求して言い合って、2個下なのに相棒って感じがしてた。

ちょうど1年前くらいに「今年関東2部に上がって、来年2部で俺らがどこまで通用するか試そう」って5号館の1番後ろの席で毎週話してたのにそれを実現できなかったのが心残りかな。まじでどこまでいくのか楽しみだし、プレーも1番好き。なんかあったらいつでも連絡してこいな。

 

 

崚加(4年/富山第一)

今年1年間色んな話をしたな。

前十字靭帯断裂してしまった場面を目の前で見ていて、崚加の分まで頑張ると決めたけど、結局2人ともダメだったな。多分崚加だけは俺の想いを理解してくれていたと思う。倒れたとき命を救ってくれたこと、そして、意識戻ってから俺の想いを理解してくれて本当にありがとう。欲を言えば、もう一度一緒にプレーしたかった。

 

 

両親へ

直接伝えるのは少し恥ずかしいので、恐らくブログを見ているだろうからここで伝えます。

2人のおかげでここまで良い経験ができました。今年1年、プレーできなくなってから、改めて、努力できる環境が整っていること、サッカーをこれまで不自由なく続けてこられたことにありがたみを感じています。

経済面はもちろんだけど、それよりも帰ったらいつも楽しくて笑っていられるような空間を作ってくれてありがとう。家族みんな仲良くできているのは間違いなく2人のおかげなので1人暮らしをしても実家に帰ります。恩返しはこれからするね

 

 

同期へ

俺が意識戻ったときにみんな心配してくれる中、1人だけ「夢とかって見るの?」って3回くらいLINEしてきたチーム最年長タスク、持ち前のフィジカルで卓球台を破壊する理翼、リアルすぎるが故にやりすぎているユスフ、日夜に対して熱い想いを持つレオ、彼女いるフリが上手すぎるメンディー、タスクと気まずいで有名な久保庭、「俺らって今ゲームの世界で誰かが操ってるんよ」って2人のときに話してくる思想家りょーか、つまんない南口、ギャップない横井、目笑ってないカズオ、サイコパス槙吾、俺らの大先生修斗、元一匹狼のヨハンとそれを更生させてくれたカレン、「臀筋から〜」が口癖な多聞、それと、まきのせ、かつけん。

 

同じカテゴリーじゃない人たちも含めて、

みんな本当に最高だった。

 

やっぱり関東リーグで同期が活躍しているのを見れるのはすごく嬉しい。

先にサッカーができなくなった身として言えることは、立教を背負って闘えることは最高だし、何より本気でサッカーに打ち込める環境があることは最高だと思う。

俺の分までとは言わないけど、最後熱い闘いを見せてほしい。

 

ラスト3試合、みんなの活躍で残留を掴み取ってくれることを期待してる!

4年間ありがとう!

 

 

以上で引退ブログとさせていただきます!

ありがとうございました!


〈お気に入りのプレー写真〉





〈お気に入りのプライベート写真〉



Aチーム同期



高校の親友


Next...

No.41 山下陽太郎(DF/國學院大學久我山高校)