4年生ブログ No.24 竹内 槙吾 「S.G.G.K」 | 立教大学体育会サッカー部日記

立教大学体育会サッカー部日記

立教大学体育会サッカー部のマネージャー日記です☆
2013.3~

No.24 竹内 槙吾(GK/新潟明訓高校)

 

 

 

 

 

 

image

 

 

 

プロフィール

学部学科:コミュニティ福祉学部福祉学科
出身チーム: 新潟明訓高校
ポジション: GK
背番号: 155,23

 

他己紹介

立教随一の天然パーマを誇る男、竹内槙吾。

 

散髪をするときのこだわりは、毛量を減らさずに、いかにサイドと後ろだけを切ってもらうからしい。富士見からの帰り道、その日の散髪で髪をたくさん梳かれてしまったことを嘆いていた。

そんな彼のこだわりや定期的に発せられる愚痴ともとれる熱い正直な想いを聞けるのも、残りわずか。

 

 

思い返せば、志木組の中でも槙吾とは多くの時間を共にした。

温泉に行ったり、年末年始に二人で自主練したり、ディズニーランドでダブルデートしたり。

 

そして、なによりもピッチ上の彼は、身長のハンデを感じさせない素晴らしいセービングを披露し、すぐさま正確無比なロングフィードから華麗にビルドアップを組み立てる。槙吾ほどクレバーで頼りがいのあるGKはそういない。

 

 

改めて、槙吾と共に4年間プレーできて楽しかったし、もどかしさや葛藤を抱えながらも、真摯にサッカーと向き合い続ける姿勢には、自分も感化されていました。

残り少しやり切ろう。

 

では、本文をお楽しみに。

 

生井澤呼範(4年/鹿島アントラーズ・Y)

 


 

「S.G.G.K」

 

「あの時が一番楽しかったなぁってじいちゃん言ってたよ。」

 

 

同立戦の翌日、新潟駅から実家に帰る車内でこの言葉を母から聞いた。祖父が亡くなる少し前に、私のサッカーを毎週応援していた日々のことを思い出していたそうだ。この言葉には母の想いも少しだけ入っていたような気がしたと同時に、自分の本気でやるサッカー人生の終わりが近いことに少し悲しさを感じた。

 

 

サッカー引退まで残り数か月のタイミングでこういった形ではあったが、久しぶりに家族に会った。改めて自分のサッカーを一番応援してくれていたし、期待し、楽しんでくれていたのは家族だと実感した。このブログでは家族も知らない自分の感情も書くつもりだが、驚かないでほしい。

 

 

感謝は言葉に出さないと伝わらない。

お父さん覚えていますか?小学校のサッカーチーム卒団の時お父さんがチームのブログに書いたことです。まずは引退ブログを書くにあたって家族に簡単にだが感謝を伝えたい。

 

 

じいちゃん、ばあちゃん、小さい頃からたくさん面倒見てもらって、サッカーもサポートしてくれてありがとう。どんな時でも優しく見守ってくれたおかげで頑張れました。

お母さん、どれだけ自分に尽くしてくれたのか、どれだけ感謝をすればよいか分かりません。本当にありがとう。

お父さん、サッカーと出会わせてくれて、サッカーを教えてくれてありがとう。身体には本当に気を付けて。ありがとう。

妹、全てを俺のサッカーに奪われて、たくさん我慢したと思う。それでも嫌な顔せず付き合ってくれてありがとう。

 

細かい感謝はまた今度で。

あと5試合。一番のサポーターである家族に少しでもプレーを見せられるように頑張りたい。

 

 

 

くらいで引退ブログが終わりで良いのならどれだけ楽だろう。本当に何を書けばよいのか、前日の一史(4年/JFAアカデミー福島)が素晴らしいものを書いたせいでレベルが爆上がりしたのも良くない。なぜ高橋がいないのかを悔やんでも仕方ない。引退まであと少しの僕がサッカーをしてきて感じたこと、当時の感情も含め素直に書いてみた。このブログが誰かの心に残ってくれたら嬉しい。

 

 

 

父親がサッカーをやっていたこともあり、生まれた頃からサッカーに触れていたと思う。今でもサッカーを始めたいと思ったあの日のフットサルを覚えている。僕が言うのも変だが、父親は僕がサッカーを始めてくれてさぞ嬉しかったことだろう。

 

 

僕がサッカーを始めてからというもの、竹内家はよりサッカー1色になった。プレーはもちろん、毎週オレンジに染まったスタジアムに足を運び、アイシテルニイガタを歌い、また負けたと文句を言いながら家に帰り、Jリーグタイムを視聴していた日々が懐かしい。アルビレックス新潟は規模が大きい訳ではなく、財政的に豊かな訳でもない。しかし、あれだけ地域に密着しており、愛され、老若男女が喜怒哀楽を表現し、寄り添われているスタジアム、チームなんてないと思う。

「電気、ガス、水道、アルビを目指しています。心のインフラアルビレックス新潟」と先日DAZNの実況の方が仰っていた。その通りだろう。サッカーはどれだけの人に感動を与え、夢を与え、楽しみを与えているのか体感した。新潟にサッカーの文化を根付かせてくれたアルビレックス新潟に感謝したい。そんな新潟に生まれ、アルビレックス新潟に触れ、サッカーに出会えて良かったと今新潟を離れて強く実感している。

 

 

アルビ愛が溢れてしまったので話を戻したい。

 

 

 

そんなスタジアムに通う中でGKというポジションに興味を持った。理由はなんかかっこよくて、やったら楽しかったからという単純な理由だったと思う。(就活の時はもっとかっこよく言ってました)その魅力にどんどん夢中になる一方で、小学生の時はパスと軟体を駆使した少林サッカーのようなジャンピング○○を得意とするプレースタイルでトップ下としてチームを牽引した。父が監督だったために、チーム事情だと言われていたが、本当は自分のようにフィールドとして活躍して欲しかったのではないだろうか。すまない父、俺はGKが楽しかった。

 

 

だからこそ中学ではGKコーチのいるチームでGKとしてプレーし始めた。本当に楽しかった。県選抜にも呼んでもらえるようになり、高いレベルでのプレーも経験できるようになってきた。しかしこの頃から僕は1つの問題に直面した。

 

 

「身長」

 

 

現在でも自分の身長は173㎝しかない。実際大学に来てから相手チームのGKが自分より小さい相手はいなかった気がする。

GKには身長が不可欠と言われている。中1の頃は届かないなくらいにしか思っていなかった。しかし、徐々に現実を知り、理解した。身長がないとGKとして評価すらしてもらえないと。それでも試合に出るために、上のレベルに行くために馬鹿みたいに飛び出したり、親譲りの卓越した運動神経を駆使して試行錯誤した。

 

 

それでも、同い年の県選抜には絶対に勝てないと痛感させられる選手が1人いた。彼と出会い、現実を知ったころこの頃からプロサッカー選手になりたいと言わなくなった。(ちなみに同年代の中高県選抜に入っていたGKは4人Jリーグの世界に行った、または行く。みんなマジで頑張ってほしい。こんな人たちと県選抜を競っていたと自慢できるくらいの選手になってほしい。)

 

 

高校は新潟明訓に行きたかった。学校としての魅力もあったが、それ以上に監督が魅力的すぎた。変わっているとも言えるが、こんなにも人を惹きつける人間に初めて出会ったからだ。しかし明訓が欲しかったGKは勝てないと思った彼で自分は2番目という扱いだった。彼の進路を気にしながら生活をしていた日に両親から「そいつのことばっか気にしてんな、自分はどこに行きたいんだ」と言われ、はっとした。その言葉で明訓への進学を決断した。幸い彼は県外に行き、正直ほっとした。

 

 

高校時代は頑張ったと思う。謎の伝統に疑問を抱いていたが、最終的には日常となっていた。ミーティングが長すぎて(素晴らしい話の毎日)身体に雪が積もることもあった。唯人(23卒/偉大な先輩)と一緒に体重測定の日に重りを装着したが、見つかりめっちゃ怒られたり、梢紘(3年/自慢の後輩/新潟明訓)が授業中に漫画を読み没収され2時間全員が怒られたこともあった。

それでも1年目から試合に出させていただき、偉大な先輩、後輩、同期、先生方と出会い全国大会出場やリーグ優勝することもできた。(キックはどこに飛んでいくか分からないもので迷惑をたくさんかけた。明訓関係者の皆様すみません。)選手権では全国に行くことができなかったが、悔いはなかった。もうそこで本気でやるサッカーは終わろうと思っていた。

 

その理由は正直一つだ。

 

 

「この身長で大学は無理だろうな。」

 

 

中、高と多くの試合に出場させていただいていたが、それでも大学でやれる自信はなかった。調べてみても大学トップレベルで僕と同じサイズで活躍しているGKはほとんどいなかった。そんなこんなで引退ライフを過ごしていたが、帝京長岡が選手権で勝ち続け、準決勝の青森山田戦を埼玉スタジアムで観戦した。敗れはしたが、興奮した、鳥肌が止まらなかった。試合に出られなくても良いからもっとサッカーがしたい。

 

 

気が付けば立教大学体育会サッカー部への入部を決意した。

 

 

1年目は修斗(4年/武蔵越生)のブログにもあったように素晴らしい4年生の姿を見てこんな人間になりたいと思った。自分の感情を殺してまでもチームに何かをもたらしたい、良い影響を与えたいという姿を目の当たりにした。すごいなと思った。

 

 

また、この時に大学サッカーで何を成し遂げたいかをカテゴリーで宣言をし、僕は関東リーグに出場したいと言った。しかし正直この時は現実味がなかったことを覚えている。何となく言ったというのが正しい。自分はそのレベルで通用するとは思っていなかった。

 

 

2,3年目も色々あった。高校の同期や知り合いの活躍に刺激を受けたり、大怪我したり、絶望の関東降格を目の前で見届けたり、濃い2年間を過ごしていたと思う。それでも海渡君、耀君(共に23卒)からビルドアップを学び、大学サッカーで生き残る術を探した。

 

 

そして4年目に上がるタイミングでチームは関東リーグに復帰した。1年生の頃は遠く感じていた関東リーグも新しい武器も身に付け、現実味を帯びてきた。

 

 

だが実際に始まったこの1年間は、私のサッカー人生で一番辛く、苦しく、今までに感じたことのない感情を持つシーズンが始まった。

 

 

新チームになり天皇杯予選が始まった。僕はサブという立ち位置だった。どう振舞えばよいのかと考えたことを覚えている。立教サッカー部のGKの姿は熊君や慈恩君(共に22卒)を見て学んだが、サブでも声を出し、チームに良い影響をもたらすことが求められていると思う。それを実現しようとした。実際にチームは勝ち続け、明治大学に敗れはしたが、シーズン開幕に向け自信をつけたように感じた。しかしチームの結果とは裏腹に、自分の行動や考え方に疑問を抱いた。

 

 

自分は何がしたいのか、どうなりたいのか

 

 

そんな思いを持ち、迎えた関東開幕。立ち位置は変わらない。チームは3試合を終えて1勝2敗。立正戦を控えたタイミングで自分にチャンスが回ってきた。この試合にどうしても勝ちたかった。チャンスを掴みたいという想いもあったが、もう一つ、相手には僕がサッカー人生において唯一勝てないと感じたGKがいたからだ。彼は何も思っていないだろうが、僕としては高校進学にも影響を与えたそいつと試合をしたい、プロに行くあいつに勝ちたいと思ってはいたが、まさか本当に試合が実現するとは思わなかった。

 

 

初の関東スタメン。入場する時のあの興奮、応援、これが関東か、やっと関東に出られる、この身長でも関東リーグに出場できると喜びを感じた。結果は0-0とGKとして最低限はできたと思う。やっとスタートラインに立った、やってやろうと思った。

 

 

しかし、その2節後のスタメンに自分の名前はなかった。負けたから仕方ない、また取り返してやる。

 

 

そこから2試合後、またチャンスが来た。結果は2引き分け。そのままチームはアミノバイタルカップに入った。

 

 

スタメン変更、またサブ。

 

 

「え、俺負けてなくね?」

 

 

がみさんに理由を聞きに行ったところ、チームとして失点が止まらないこと、大会が変わることの2点を伝えられた。正直全く納得していなかった。でもやるしかない、考えた、与えられた状況でどう振舞う、熊君ならどうすると。

結果は2回戦敗退。何もできない自分に悔しかった。

 

 

アミノ敗退翌週には明立戦があった。ここでまた僕にチャンスが来た。1-1と満足のいくものではないが、パフォーマンスとしては悪くなかったし、正直手応えを感じた。きっと来週の関東もチャンス来るな。

 

 

迎えた7月16日、青山学院大学戦。またもスタメンに自分の名前はなかった。

悔しいとか、怒りとか、そんな感情ではなかった。

無である。感情など何もない。思考は完全に停止したと言っていい。

 

 

当日富士見に行くと他カテゴリーの後輩から何で出ないんですかと声を掛けられ、自分が部屋に入ると気を遣われ空気が凍った。どこにも居場所がなく、誰もいないところを探した。

 

 

試合は3-1で勝利したが、自分は感情がない。勝ちロコが終わりみんなが喜んでいる中、1人輪から外れている自分に学士(4年/専修大学松戸)が声をかけてくれた。自然と涙が出てきた。悔しさなのか、怒りなのか、安堵なのか、何の涙か分からなかった。

 

 

 

もう引退ブログなので全てを正直に書くが、この日を境に自分は変わったと思う。

 

 

自分の中にある感情として、もうサッカーいいかな。もう十分だな。きついな。

 

 

思うようなプレーができない。そもそもしようとするメンタルがない。失点すると、「あ、もうないな」と思うようになってしまった。サッカーをやってきて今までに感じたことのない感情だった。

 

 

この試合後も関東でのチャンスが来た。関東初勝利もあげたが、次の早稲田戦では2-2で引き分けた。試合中、追い付かれた瞬間察した、「これまた、次はないな」

 

 

 

こんなメンタルの選手がいて良いのか。それを常に考えるが、自分の中から湧き出てくるものがない。どうしたら良いのか。

そんなメンタルは変わらず、時間だけが進んでいく。そのタイミングで同期の引退ブログが始まった。みんな良いこと書くな、頭いいななど感じると共に、あと少しでサッカー終わるのかとふと感じた。このままでいいのか、何か行動を起こせよと。

 

 

 

僕はありがたいことに今シーズンあるj1のチームに度々練習参加させてもらっている。その練習後、自分は勇気を出してジョギング中のある選手に声をかけた。

 

 

「○○さん、付き合ってもいいですか?」

 

 

快く受け入れてもらえた。15分くらいだったと思う。夢のような時間だった。プロやサッカーの厳しさ、どうメンタルを維持しているのか、どんな考え方をしているのか、なぜそう考えるようになったのかなど、多くを教えてもらい、何か自分のためになることはないか探した。その中で特に印象的だったことがある。

 

 

「俺にだって感情はあるから悔しいことだって、落ち込むことだってある。でもそこの切り替えが異常に俺は早い。だって上に行くためにとか、なりたい姿を達成するためには今を頑張るしかない。だから止まる時間はない」

 

 

この言葉を聞いて理解できない人はいないだろう。しかしそれを実現することが一番難しい。でも、それを愚直にやり続けてきたからこそ、その選手は国を背負い世界と戦い、世界有数のクラブでも通用してきたのだろう。また人としても超一流と言われており、その人間性、キャラクターから愛され、尊敬されているのだろう。説得力が違った。

僕は7月16日から止まっていた。今を頑張るしかないのに。あと少しでサッカーが終わってしまうのに。後悔しても仕方がない。

サッカー人生の最後にありがたい学びであると共に、自分を見つめ直す良い機会になった。

 

 

 

僕は今までサッカーをやってきてどんな時もなりたい姿や目標があった。それに向かって頑張れた。残された期間で自分はどうなりたいのかを自問した。それを宣言としてここに書き、引退ブログを締めたい。

 

 

自分はやっぱりGKが好きだ。チームで一人しか出られず、ミスはチームの結果に直結し、負けると責任を問われる。チームには勝ってほしいが自分が出ていない時は非常に複雑な気持ちにもなる。身長がないと評価すらされないこともある。とても残酷で孤独なポジションだ。だからこそGKチームの絆は強く、特別なものだと思うし、お互いを尊重し切磋琢磨できる。海斗(4年/初芝橋本)、牧之瀬(4年/昌平)ラスト頑張ろう。俺たちで立教を勝たせよう。

 

GKは誰もが決まったと思うシュートに宙を舞いセーブする。その瞬間会場が歓声とため息に包まれる。そんな一瞬のため何度も空を飛び、地面に叩き付けられ、身体から血を流す。サッカーを辞めたら、GKを辞めたら、私生活ではありえないこの動きをすることはなくなる。こんなGKの魅力を噛みしめたい。

 

 

このブログをどんな人が読んでくれるか分からないが、身長の低いGKでも大学サッカーでやれると勇気を与えたい。僕のことを説明する際にはGKとしては小柄ながら、、、と言われることを知っていた。だからどうした、身長関係なく見ろよと常に思ってきた。それでも身長が低いという事実は変わらないし、自分の中でトレードマークとして、特徴として戦ってきた。だからでかい選手に絶対に負けたくないし、身長が小さいGKにも希望を持ってほしい。残りの期間で戦い方はいくらでもあると表現したい。

 

 

最後に立教のAチームとして戦うことに誇りと責任を感じ、戦いたい。150人を超える部活の中でAチームに届かず引退する人、怪我でサッカーが出来ない人、いろんな人がいるが、関東リーグに出られるのは選ばれたAチームだけだ。プロとは違い、チームの想い、みんなの想いを背負って戦えることも学生スポーツの魅力であると感じる。死ぬ気で戦うとよく言うが、一人ひとりの想いを考えた時にそれは当たり前だ。だから俺はチームのために死ぬ気で身体を張って戦いたい。

 

 

 

 

サッカーと出会い、サッカーから学ばせてもらった。そこで多くの人と出会い、成長してきた。自分の人生にサッカーがなかったら、GKと出会っていなかったらどんな人生だっただろう。そんな自分に残された試合はあと5試合。後悔なくは無理かもしれない。それでも残された時間、「今」に全力で向き合い、サッカー人生に終止符を打ちたい。

そして引退する時には、最後にサッカーへのモチベーション、活力を与えてくれたあの選手のように叫びたい。

 

 

 

 

 

俺のサッカー人生、ブラボ―!!!と。

 

 

 〈お気に入りのプレー写真〉

 

 

 

 

 

image

 

 

 

〈お気に入りのプライベート写真〉

 

 

 

 

 

 

 

image

             夏

 

image

          頑張ろうGK

 

Next...

No.25 辰野 順平(DF/検見川高校)