No.23 髙木 一史(MF/JFAアカデミー福島)
プロフィール
学部学科:コミュニティ福祉学部スポーツウエルネス学科
出身チーム: JFAアカデミー福島
ポジション: トップ下
背番号: 6
他己紹介
「ミスター計画性」髙木一史。
おそらくこのブログも、提出日が分かった瞬間に書き上げたのだろう。なんかの本で読んだけど、生産性が上がるほど空いた時間が増えるので、相対的に要求される仕事量も増えるらしい。だから時には息抜きもした方がいいよ by ミスター無計画。
彼とは学科が同じで志木に一人暮らしという共通点があったので、仕方なく4年間仲良くしてあげている。
1年のときは遊び方を知らず、毎週のようにカラオケ行ってたね。店の外まで聞こえるバカでかい声で「Mela!」を歌っていたのも良い思い出です。
恋愛に関しては、今の彼女とクリスマスデートで付き合い、1年記念日に全く同じコーデでデートするのやめてください。ちょっと羨ましかったです。交際に関しては全く持って『Always Fresh』じゃない、良い彼氏じゃん。
共に過ごした時間が長い分、色んな思い出もあるけど、実はサッカーに対する思いも意外とアツいんじゃないかと、たった4年間の友達経験を通して考察しています。普段は淡々としてるくせに、大事な試合に負けて一番泣いてるのは一史だったりする。人事の方、やっぱ彼ってめちゃくちゃ『素直でいいやつ』ですね。
まあ僕のブログじゃないんでここまでにしますけど、彼が書く文章は面白いこと間違いなしです!最後まで読んでね!!
久保庭 良太(4年/ジェフユナイテッド千葉U-18)
「涙を流してまでサッカーをする理由」
16年の長かったサッカー人生も残り1ヶ月となり、様々な感情が込み上げる時期になった。飽きっぽい自分がこんなに情熱を注げることなんて、後にも先にもサッカーくらいだと思う。
ただ、自分の大学4年間は順風満帆ではなく、想像以上に苦しかった。
結局、両親や同期にすら打ち明けず今に至るのだが、大学3年の時には本気でサッカーをやめようと思っていた。
そのとき何を感じ、今どんな思いでプレーしているのか。
大学でのこうした経験を含め、これまでのサッカー人生を赤裸々に振り返ることで、このブログを通して自分の人生に一つの区切りをつけたいと思う。
書き出しは少しカッコつけてみたが、小学生時代の自分はただの平凡なサッカー少年だった。
そもそも、父は剣道で姉は陸上という家系の自分がサッカーを始めるなんて、まさに偶然だったし、当時の少年団も県大会出場で大喜びといったレベル感だった。
勝敗なんかより、ボールを蹴ることそれ自体の楽しさの虜になり、サッカーにのめり込んでいった。
そんな平凡なサッカー少年に、12歳のとき転機が訪れた。
色んな縁で「JFAアカデミー福島」というチームを知り、そのセレクションを受けることにしたのだ。
このチームは日本サッカー協会が運営する中高一貫かつ全寮制のチームだ。サッカーに専念できる環境としては全国屈指だったが、入るには一次から四次まで4回ものセレクションがあった。
実力試しの意味でも、最初は軽い気持ちで受け始めた。
だが、気がついたら最終セレクションまで進み、ある日家に帰ると「合格」と書かれた通知書が届いていて、一気に胸が高鳴った。
そうは言っても不安がなかったわけではない。なにしろ、このクラブに入れば12歳で親元を離れなければならないからだ。
しかし、より高いレベルでプレーできることにワクワクしたし、何よりサッカー以外にも学力テストや小論文、面接やグループワークなど、就活くらい色々課されるくそ長いセレクションを奇跡的に突破したのに、今さら引き返せるはずもなかった。
ガキだった自分はこうして深く考えず親元を離れる決断をしたが、今あのときの両親の気持ちを想像すると、多分ものすごく葛藤したのだろうなと思う。
あのとき、引き止めずに応援してくれたおかげで、12歳を境に人生が大きく変わっていった。
こうして中学入学と同時に親元を離れてからは、小学生時代のお遊びサッカーとはうって変わり、仲間と練習からバッチバチにやり合った。
元日本代表の一流コーチ陣に囲まれ、全国から集まった仲間とサッカーをする日々はめちゃくちゃ刺激的だった。
しかし、肉体的にも精神的にもハードだった。
怪我をしたり自分のミスで試合に負けたりして落ち込んでも、ライバルと共に暮らす環境では心が休まらなかった。
中2でスランプに陥ったとき、監督に寮の空き部屋へと呼び出され、怒るわけでもなくアドバイスするわけでもなく、ただ、「最近元気ないな、どうした」とだけ同情されたときは、自分の情けなさを痛感した。
でも、覚悟を決めてこの地でサッカーをしていたし、何より実家から片道4時間かけて毎週試合を見に来てくれる両親のことを考えたら、下を向いている場合ではないと奮い立たせられた。
チーム練習に加え、週に1日しかないオフの日もボールを蹴った。それだけではなく、朝5時前に起き、日が昇る前に自主練をした日もあった。
そんな努力が身を結んだのは、中3の夏だ。
ドイツへの遠征で、ドルトムントやシャルケ、ハノーファーといった名門クラブと対戦し、2勝1敗と勝ち越して遠征を終えた。そして、その勢いで全国大会に臨み、準優勝を果たした。
3年前まで、地元の小さな少年団で「今日の相手強いんだよな〜」なんてビビっていた自分が、努力を重ねた結果、「世界が相手でも意外とやれるじゃん」なんて仲間と話していること。そして、何台ものカメラに囲まれながら日本一を決める戦いのピッチに立っていること。
正直、自分は「努力は裏切らない」とか「やればできる」とか、そういう綺麗事が好きではないけど、このときばかりはそんな言葉が真実なのかもしれないと思えた。
こうして、理想的な成長曲線を描く中学時代を送った。
しかし、人生がそんなに甘いはずもなく、サッカーに対してネガティブな感情よりポジティブな感情が上回った期間は、この中学時代が最後だった。
先に書いたように、JFAアカデミーは中高一貫なので、高校も中学時代の仲間とプレーした。
高校生くらいになると、純粋にサッカーが「うまい」だけでは試合に出られなくなる。
技術はもちろん、強靭な身体や走力などを兼ね備えた、より完成された選手しか活躍できないという事実を突きつけられた。
同期15人のうち、一人、また一人とAチームに昇格する中、技術の高さだけで中学時代を乗り切ってきた自分は、中々Bチームから抜け出せなかった。
なんとか現状を変えようと、日々フィジカル強化に注力し、高2になってようやくAチームに昇格できた。が、自分を待っていたのは充実した日々ではなかった。
Aチームに昇格したものの、毎週末公式戦のベンチ外。加えて、選手たちでアップを行うチームだったので、アップのメニューを考えて時間を管理するところまで、ベンチ外である自分が行った。
サッカー選手として一流になるためにこのチームに入ったにも関わらず、2時間かけて移動したアウェイの地でも、自分が行うのは裏方業務だけ。
こうした屈辱的な日々が1年続き、何の思い出もなく高2も終わった。
そして、高校3年生。
最上級生としてようやくレギュラーの座を掴み、これまでの鬱憤を晴らすかのようにプレーした。
チームとしては、3年ぶりに全国に出てベスト16となり、東海リーグでは優勝を果たした。加えて、個人としてもナイキのサッカーキャンプで優秀選手になり、海外遠征やJ1チームへの練習参加といった機会を掴み取った。
苦しい日々を乗り越えて成果を出す、そんな中学時代と同じストーリーを描いて高校生活を終えるイメージは完璧にできていた。
しかし、現実は非情だった。
高校最後の大会であるプレミアリーグ参入戦の1週間前に急にスタメンから外され、1秒もピッチに立つことができなかったのだ。
「6年間の集大成としての試合」、「両親がわざわざ岐阜から広島の会場まで来てくれる試合」など、挙げればキリがないくらい様々な意味を持つ試合に出られず、涙が止まらなかった。
そして、チームもPKで試合に敗れ、高校サッカーの幕を閉じた。
正直、中高の6年間を通してやるべきことをやり、努力を積み重ねてきた自負があったので、試合に出られなくても後悔は一切なかった。むしろ、「これだけやって出られないなら仕方ない」という清々しさすらあったような気がした。
しかし、そんな思いを一瞬でかき消す強烈な悔しさを抱えたまま、高校を卒業した。
こうして自分はスッキリしないまま大学に入学したが、立教サッカー部に入部してからは、改めてサッカーの楽しさを実感する充実した日々だった。なぜなら、中高の6年間同じ仲間とプレーしてきた自分にとって、新たなメンバーとサッカーができること自体、とても新鮮だったからだ。
高校の悔しさを晴らそうと意気込む必要もないほど、勝手にモチベーションが湧き、毎日ワクワクしながら練習していた。
それくらいポジティブにプレーしていたので、大学1年時はこれまでのサッカー人生でも類を見ないくらい調子が良かった。そして、その勢いのまま1年生の終わりにAチームへ昇格し、大学2年時は170人の部員を代表して関東リーグで戦うことができた。
しかし、厳しい戦いの中でチームの成績は振るわず、年間を通して残留争いに巻き込まれる苦しいシーズンとなった。
チーム内の競争に勝ち、試合に出続けられている喜びと、試合に勝てない焦りといった正反対の気持ちを抱え、心をすり減らして残留争いを戦った。
だが、2021年12月4日、立教大学は城西大学との入れ替え戦に敗れ、5年ぶりに東京都リーグへの降格が決まった。
昇降格を決めるあれだけ重要な試合において、後半ラストプレーで失点し、相手が歓喜に沸く中そのまま試合終了の笛がなるという、思いつく限り最悪のシナリオだった。
今でもあの試合を見返すことは抵抗があるくらい劇的な幕切れで、スタジアムの外に座り込み、時間を忘れるくらい涙を流した。
こうして、悪夢のような試合を経て大学3年のシーズンが始まった。
「1年で関東リーグに復帰する」という目標に向け、例年以上に気合いが入る始動だった。
しかし、この年の自分はどこかパッとせず、本調子からは程遠かった。
その理由は今でも明確には分からない。昨年の悪夢をどこかで引きずっていたのかもしれないし、ケガの影響があったのかもしれない。
また、嵯峨(2年/三菱養和SC・Y)や慶太(3年/ FC東京U18)など、自分と同じポジションにプロ注目の有望な後輩がどんどん入ってきて、調子を上げていた。そんなプレーを見て、焦りが生まれていたことが原因だったのかもしれない。
とにかく、中々思い通りにいかず、もどかしさを感じながらプレーしていた。
2年生の頃とは対照的に、個人としては試合に出たり出なかったりを繰り返す1年になったが、チームとしては都リーグを勝ち抜き、関東リーグ昇格戦への出場権を掴み取った。
そして、昇格戦まで残り2週間を切り、本番を想定して行われたトレーニングマッチ。
監督から「最近、俺は一史の調子がとても良いと思っている」とミーティングで突然伝えられ、スタメンとしてピッチに送り出された。
年間を通して納得いくプレーができていなかった自分にとって、何よりも嬉しい言葉だった。
調子が上がらず悩んだ1年だったが、腐らず耐え忍んできて良かったと思った。心なしか、その試合はいつも以上にイキイキとプレーができ、その勢いのままついに昇格戦初戦の前日を迎えた。
試合の数日前から武者震いがするぐらい気合いは入っていたし、それ相応のプレーをここ最近は見せていた。
しかし、スタートにもサブにも自分の名前はなかった。
もはや悔しいとかではなかった。
現実を受け入れられない喪失感や、自分自身への無力感。
意気込む仲間とは違った感情を一人抱える孤独感や、彼らに対する劣等感。
そして、言葉を選ばず言えば、あれだけ「調子が良いと思っている」と伝えておきながら、なぜ俺をメンバーに入れないんだという監督への怒りや不信感など、自分の語彙で表現できる全ての負の感情を混ぜ合わせたような、複雑で強烈な感情が心をえぐってきた。
他カテゴリーの選手には何人か声をかけられた。
一人暮らし同士仲が良いしげ(4年/神戸国際大学附属)には、「酒持って家まで励ましに行こうかと思ったわ」なんて笑いながら言われた。自分も笑いながら「ありがとな」なんて返したが、正直笑顔を作るので精一杯だった。
スタンドから見守ったその試合は立教が4-0で中央学院に快勝し、昇格に向けて大きな弾みをつけた。
しかし、素直に喜べるはずもなく、歓喜に沸く仲間から目を背けるようにしてグラウンドを後にした。
その翌日、試合に出なかった選手を中心に練習試合が行われた。その試合のハーフタイム、自分は涙を堪えることがどうしてもできなかった。
あのとき、誰にどんな言葉をかけられたか今でも鮮明に覚えている。
同期の海斗(4年/初芝橋本)には、「らしくないぞ」という励ましの言葉を、後輩の慶太(3年/ FC東京U18)には、「来週の試合出るんだろ」と鼓舞する言葉を、そして先輩の悠力君(23卒)には「一旦この試合に集中しろ」と気持ちを切り替えるよう言葉をかけられた。
しかし、自分の頭にある言葉は一つだけだった。
「今シーズンでサッカーをやめよう」
これ以上、サッカーに情熱を注ぐことは無理だと感じた。
「サッカーをやめるのは逃げではないか」なんて、その日から何回も自分に問いかけた。
だけど、中途半端な熱量のまま惰性でサッカーを続ける方がダサいし逃げだとしか思えなかった。むしろ、15年続けたサッカー以外に自分には何ができるのか、それを見つける方がよっぽどチャレンジングだと思った。
昇格戦が終わったら、サッカーをやめると両親と監督に伝えよう。そう決心したまま、残りの試合を戦った。
そして、昇格戦の最終節。この試合の結果次第で、悲願の関東復帰が決まるという試合で、自分は再びメンバー外となった。
熱い戦いが行われているであろう会場から遠く離れた自宅で、自分にできることはTwitterを更新し、試合速報を確認することくらいだった。もの凄く惨めではあったが、これくらいの方が逆に何の未練もなくサッカーを辞められると、むしろポジティブに捉えている自分がいた。
何度も速報を更新した結果、最終的に「立教が1年で関東に復帰した」という情報が目に入った。
ピッチ上であの悪夢のような試合を経験し、そこから1年間「関東復帰」だけを見据えて練習に取り組んできた。
そして、チームとしてようやくその目標を達成したとき、自分の心が喜びを感じることはなかった。自分でも驚くほどに無感情だった。
AチームのグループLINEには、監督を胴上げしている写真や、みんなで喜びを爆発させている集合写真が送られてきていた。そんな写真を見たところで、何の感情も沸き上がってこないくらいに、サッカーへの情熱は消えていた。
これが都リーグに降格してから関東に復帰するまでの、なんの脚色もない、自分のリアルな1年だ。
それから約1年がたった今、自分はまだサッカーに没頭している。
あのときなぜサッカーを辞めなかったのか。
それは他でもない、これまで共にプレーしてきた「仲間」の存在だった。
昇格戦の後、2つの集まりがあった。
1つ目は、Aチーム全体で行った昇格祝賀会だ。
あのとき、達成感に満ち溢れた4年生の表情を見ていて、最上級生としてチームを目標達成に導いた彼らの姿が自分の脳裏に蘇ってきた。
キャプテンとしてチームを引っ張り続けていた堀くん(23卒)や、怪我に苦しみながらも真摯にサッカーに向き合っていた岡くん(23卒)、常に全力プレーでチームを勢いづかせていた新谷くん(23卒)など、人として心から尊敬できる最高の先輩だったと改めて感じた。
そして、祝賀会の終わり際、隣に座っていた岡くんに「来年こそはお前が試合に出てチームを勝たせるんだぞ」と力強く握手をされたとき、完全に消えていたサッカーへの情熱が、少しずつ戻ってくるのを感じた。
2つ目は、新宿の居酒屋に中高の同期と久しぶりに集まったときのことだ。
高卒でプロの世界に進んだ同期が、当時のJ1王者であるマリノスに移籍するという話を切り出した。
厳しいプロの世界で着実に成果を出し、覚悟を決めて移籍しようとしている彼の話を聞き、ものすごく刺激を受けた。
当時、自分は既に卒業後の進路を決めていたので、決して「やっぱり俺もプロを目指そう」なんて思ったわけではない。
だが、サッカーで人生を切り拓く彼と、一番悔いが残る形でサッカーを辞めようとしている自分。
曲がりなりにも中高の6年間共にプレーしてきた身として、彼の姿を自分と対比させたとき、今サッカーを辞めたら間違いなく後悔すると感じた。
実力云々ではなく、彼くらいサッカーに情熱を注ぎ、何も思い残したことはない状態で引退を迎えたいと思った。
こうした集まりを経て、自分はどう選択をすべきなのか。
ここまで来れば、もう結論ははっきりしていた。
そして、大学4年。
覚悟を決めて「サッカーを続ける」という選択をし、今ピッチ上で戦っている。
普通に考えれば、自分が試合に出られるはずもなかった。
なぜなら、立教サッカー部100年の歴史の中でも五本指に入るくらい重要な試合に、自分のポジションで出場していたのは、嵯峨(2年/三菱養和)や慶太(3年/FC東京U18)、圭佑(3年/國學院久我山)など、後輩たちだったからだ。
だが、そんなことはどうでも良かった。
悔いなくサッカー人生を終えるために、自分がやるべきことをひたすら積み重ねるだけだと心に決めた。
サッカー選手として、特にこれといった武器がない自分がやるべきことは、これまでも、これからの1年も変わらないと思った。
“芸術的”と言われるくらい基礎技術にこだわり、極めること。
練習前の準備、練習後のケアに人一倍時間を割くこと。
一喜一憂せず、長期的にコツコツと努力を積み重ねること。
当たり前のことを当たり前以上にやり続けるしかなかった。
こうして覚悟を決めて臨んだラスト1年が、自分の人生においてどんな意味を持つものになるのか、それは客観的に振り返れるようになるくらい時間を先に進めないと分からない。
ただ、一つだけ言えることはある。
誰に何と言われようと、どんな形で引退の日を迎えようと、後悔だけは絶対にしない自信がある。
今年は昨年以上にプレーの調子が良いし、公式戦出場数も多いし、もっと分かりやすくリーグ戦で得点も積み重ねられている。
でも、自分が「絶対に後悔しない」と言い切れる根拠はそんなことではない。
あの日の怒りや喪失感に何とか折り合いを付けようと、ピッチ内外問わず、当たり前のことを当たり前以上にやり続けた今年1年の「日々の積み重ね」こそが根拠だ。
そう言い切れるくらい、今年はサッカーに情熱を注ぎ、没頭できている。
残り1ヶ月。
これまでの涙や葛藤が、全て引退の日を輝かせるための伏線だったと思えるように、最後まで全力を出し切りたいと思っている。
定期的に自分の人生を振り返り、毎回頭に浮かぶ問いがある。
「なぜ自分は、涙を流すような苦しい思いをしてまでサッカーをするのか」
この問いの答えが、引退ブログを書きながら見えてきた。
自分のサッカー人生を振り返り、「楽しかったですか?」と聞かれれば、答えは間違いなくNoだ。
「色んな苦しいことはあったけど、今振り返るとなんだかんだ楽しかったね〜」なんて、そういう上辺だけの言葉が自分は大嫌いだ。
綺麗事で片付けられないほど残酷なのが現実だって、自分の人生で何度も思い知ってきた。
だけど、「サッカーをやっていて良かったですか?」と聞かれれば、答えは間違いなくYesだ。
別に自分は、大した苦労もせず、楽にコスパ良く人生を送りたいわけでもないし、楽しい経験をたくさんすることだけが幸せな人生だとも思わない。
色んな挑戦をし、成功も失敗もたくさん経験することで、自分の人生を語れて誇れるものにすること。
悔いが残る余地なんて一切ないくらい物事に全力を注ぎ、記憶に深く刻まれるような日々を送ること。
これが自分にとって最高の人生だ。
そう考えたとき、この16年は自分の理想的な人生そのものだった。
涙を流してでも逃げずにどうにか現実と向き合い、時に仲間の助けも借りつつ、這いつくばってでも前に進もうとした日々は、間違いなく語れて誇れる経験だし、自分の記憶に深く刻まれている。
サッカーなんてやっていなくても、というより、サッカーなんてやっていない方が普通に楽しい人生を送れていたはずだ。
でも、サッカーをここまで続けていなかったら、自分の人生をこれほど語れて誇れていたはずがない。
色んなものを犠牲にしてでもサッカーに没頭する日々が、自分にとって理想的な人生だったから。
これが自分の、「涙を流してまでサッカーをする理由」である。
最後に、ここまで応援してくれた両親へ。
10年前、自分がいきなり実家を離れると決めたとき、寂しさを見せずに応援してくれたこと。
岐阜から静岡まで往復600km、毎週のように試合を見にきてくれたこと。
基本的には何も言わず、でも必要なときには手を差し伸べる、そんな丁度良い距離感でいつも支えてくれたこと。
この場を借りて伝えさせてもらいます。
本当に、本当にありがとう。
自分の人生を赤裸々に綴ったこの文章が少しでも心に響き、社会人になる前のささやかな親孝行になっていれば嬉しいです。
田舎でのんびりとぬくぬく育っていたはずの自分が、気がついたら就職活動で、
「実力主義の会社でたくさん挑戦し、成長したいです」
なんて言うくらいには、サッカーで価値観が180度変わっていました。
サッカーでこれだけ心をへし折られそうになったのに、社会人としても懲りずにまだまだ茨の道を歩もうとしている息子を、引き続き温かく見守ってくれると嬉しいです。
そして、仕事は妥協せず、プライベートは楽しみ尽くし、社会人になっても色んな思い出話を実家に持ち帰りたいと思っているので、楽しみにしていてね。
改めて22年間支えてくれて本当にありがとう。これからもよろしく。
〈お気に入りのプレー写真〉
〈お気に入りのプライベート写真〉
同期と伊豆に行ったときの写真(右から2番目、下から2列目)
同期と京都に行ったときの写真(一番左)
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No.24竹内 槙吾(GK/新潟明訓高校)