4年生ブログ No.20鈴木崚加 「大航海」 | 立教大学体育会サッカー部日記

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立教大学体育会サッカー部のマネージャー日記です☆
2013.3~

No.20 鈴木 崚加(FW/富山第一高校)

 

 



 

 

プロフィール


学部学科: 経営学部​経営学科

出身チーム: 富山第一高等学校

ポジション: FW

背番号: 46


 

 

他己紹介


本日のブログは、立教のソクラテスこと鈴木崚加!!

 

 

Aチーム4年専属カメラマン、志木駅無料駐輪場の管理人、宅飲み時パーソナルトレーナー(女の子にダンベルを持たせる)、コーヒーマイスター。

 

彼を形容する言葉はまだまだあるが、どれも常に周りの人のために尽くすことができる彼の人柄がよく表れている。

 

「リョウタやっぱお前すごいわ。」と試合後に褒めてくれたり(名前呼びしてるの真嗣と君だけね。)、久しぶりにあげたインスタストーリーに1番早くいいねしてくれたりと、何事もポジティブな面に目を向けることができる崚加。

 

 

ただ、彼は自分のことについて聞かれなきゃ話してくれない。(元カノの存在も半年くらい隠されてた。)だからこそ、彼のブログを早く読みたくて仕方がない。

 

 

大学4年間多くの怪我に悩まされながら、それでも決して腐らずにチームに貢献し続けてきた彼が今何を思うのか。思想家なのは免許証の写真だけじゃないことを証明してください。

 

 

このブログ読まんにゃ後悔すっちゃ。いいが?


久保庭良太(4年/ジェフユナイテッド千葉U-18)


 

 


 

 

「大航海」

  

ソクラテスとか変な印象つくからマジでやめろ。思想家とかよく言われるけどまじでよくわからん。なあリョウタ。

俺とマサシだけがリョータ呼びなんだ、なるほどねえ〜。

多分1年生とか俺のこと知らない人ばかりだと思う。グラウンドに行っても誰こいつみたいな顔をされる。仕方ないんだけど。

これを機にこんな奴もいたんだなあと知っていただけたら光栄です。

 

15年前に出会ったサッカーが俺の人生を彩ってくれました。その素晴らしい人生を振り返っていたら印象的なことが多すぎて、ダラダラと長く書いてしまいました。

お時間があったら是非読んでいただけると幸いです。

 

 

 

 

僕の人生はサッカーが色々な場所に連れてきてくれた。

サッカーという舟に乗り、

チームメイトや監督が波となり、

そして愛する家族が強い風となって、

僕はその流れに身を委ねつつも、

自分でも全力で櫂を動かした。

振り返って考えてみるとそのような感じがする。

 

サッカーは僕に沢山の素晴らしい景色を見せてくれた。

美しい景色だけではない。

眠れない夜に思い出してしまうような嫌な記憶も沢山ある。

乗ってきた舟はダメージを受け何度も何度も沈みかけた。しかし沢山の素晴らしいトレーナーに修復していただき、なんとか22歳まで保つことができた。そして学生サッカーの集大成である今シーズンの始めに限界がきてとうとう沈没してしまった。

 

 

サッカーを始めた小学1年生の時にはこんなこと考えられなかった。富山でずっと暮らしていた田舎臭い俺が「花の都大東京」の大学に通うなんて。今でも餓鬼の俺は東京の大学に通っていることに優越感を感じ取れてしまう。

 

サッカーは兄の影響で始めた。そして初めて出場した試合で6得点し、点を取ることで得られる高揚感に衝撃を喰らい、サッカーにどっぷりハマった。あの日、15年前に感じた興奮とゴールネットが揺れる瞬間の景色は今でも忘れられない。

 

それから生活の中心がサッカーとなり、沢山の選手やコーチと出会い、様々な場所、景色を見ることになった。俺が所属していたチームはクラブチームで、小学生の頃から当たり前のように遠征で県境を跨いだ。北信越の石川や福井、更には関東や関西といった行き慣れていない富山から離れた地を毎月のように訪れ、様々な場所でたくさんの選手とサッカーをした。富山県選抜で埼玉へ遠征に行った際、トッカーノにいたバケモン小学生宮本ディアウ勇守歩(川崎フロンターレ/経営学部4年)にハーフラインくらいから弾丸ロングシュートを決められたのは敵ながら憧れを抱いた。

 

 

中学に上がり、素晴らしいスタッフとの出会いがあった。俺がサッカーでここまで来れたのはこの出会いがあったからだ。毎日のように怒られ泣いて帰り、チームメイトから「泣き虫」というあだ名までつけられた。その代償に俺の武器である動き出しやゴール前の駆け引き、シュートへの持ってきた方は全て中学で身につけた。今思えば毎日泣くくらい怒られたのは軽い代償だ。

 

そしてサッカーで上を目指す熱い仲間との出会いがあった。彼らの目はサッカー中になると、その人ではない別人になるように感じた。目はギラギラして怒号が飛び交う。今思えばここからが大人のサッカーへの入り口だったと思う。小学生の時のように、何も考えず無垢で無邪気にボールを蹴ることがなくなった。

俺も彼らの影響を受け必死にしがみついた。練習に行くのが憂鬱で、パスを受けたくないと思うことがよくあった。だから練習しまくった。家の近くの公園で、雨や雪が降ろうが、カップルがベンチでイチャイチャしていようが、壁にボールを蹴り続けた。その甲斐あってか、状況が少しずつ変わっていった。

 

練習に行くのは変わらず憂鬱だったが、練習中に良いプレーをできるようになっていった。周りからの怒号が賛称に変わり、その時に感じた心境は今まで経験した中での何ものにも変え難いものであった。

高円宮杯の北信越トーナメント準決勝で決勝ゴールを決めた時に、眼前にチームメイトがダッシュで駆け寄ってくる姿、俺以上に喜んでいる表情が溢れていた。その光景を見て、俺は思わず涙してしまい、その後チームメイトにめちゃめちゃ馬鹿にされた。あの時は心臓が飛び出そうになるくらい本当に幸せな気持ちになった。

 

その後、月日が経ち2年生になり、サッカーのレベルも着実に上がっていった。そして中日本トレセンにも選ばれるほど上手くいっていた矢先、人生で初めての大怪我であった鎖骨骨折をしてしまった。その怪我する前までは、ほとんど怪我をしたことなかったが、この怪我から一変した。何かの大切な糸がプツンと切れたかのように、体のバランスがおかしくなったのか怪我と隣り合わせ、あるいは付き合いながらのサッカー人生へと進んでいった。4ヶ月が経ちサッカーに復帰できたが、捻挫や手首骨折を繰り返しテーピング生活へとなっていった。

怪我をするようになったが、この中学時代を送っていなければ今の自分は確実にないと思う。今振り返った時に、それくらい貴重な期間だったと思い、一ミリの後悔もない。

3年時の北信越リーグで、今プロの舞台で戦ってる選手が何人かいる帝京長岡の下部組織である長岡JYに11-5という野球のようなスコアで大勝したのは忘れられない試合の一つである。

 

 

 

その後、北信越の強豪で迷った挙句、富山第一高校に進学した。俺が1年時の3年生がめちゃめちゃ強い代で、入学当初衝撃を喰らった覚えがある。トップチームに上がることは叶わなかったが、練習を見学するだけで胸が躍り、2人の偉大なストライカー(現j2,JFL)から沢山のことを盗もうと努力した。シュートの打ち方、キープする時の体の当て方、競り合い方など、言葉にしたらキリがない。憧れすぎて立ち振る舞いまでも真似していたかもしれない。

 

2年生になり、プレミアリーグに所属するトップチームに登録はされていたが試合に出場することできず、セカンドチームのプリンスリーグを主戦場に戦った。細かな怪我があったものの、ほとんどの試合に出場した。セカンドチームといえど、戦う相手は北信越の強豪のトップチームで、毎試合タフで僅差の試合が多くあった。そのため一点の重みが非常に強く、得点することに強い義務感やら重圧やらが、かかっていた。チームで1番得点することができたが、俺が決め切れずに負ける試合も多々あった。新潟明訓で一年からトップチームの守護神であった竹内慎吾(コミュニティ福祉学部4年)に何本の決定機を止められたか。挙げ句の果てにはPKまで止められてしまった。俺のせいで負けた試合で見る仲間の悔しそうに泣いている表情や、俺が決定機を外してどんよりする雰囲気が本当に辛すぎて、その光景を思い出すと吐き気がするほどトラウマになっていた。だからシュートを打ちまくった。監督やコーチに早く帰れと言われながらもシュートを打ちまくった。監督やコーチに怒られるよりも、あの光景を見るのが嫌すぎてとことん打ちまくった。

 

そんな甲斐もあって、3年時にはトップチームのスタメンで試合に出続け、インターハイ夏の全国に挑んだ。あの時期はチームとしても個人としてもすごく調子が良く、負ける気がしなかった。Jのスカウトが俺のことをチェックするくらい体の状態は完璧だった。見事勝ち進み、準々決勝の前日練習で、準決勝で当たるかもしれなかったダークホース初芝橋本が、前日とは思えないようなふざけたミニゲームをしていた。俺たちはバチバチにセットプレー練習をやっていたため、こいつら負けるなあと思っていたら案の定負けていた。海斗(横井海斗/主将/観光学部4年)、試合したかったなああ。

 

勝利後の観客にいる親たちに挨拶に行くのは本当に幸せだった。沢山の迷惑をかけ、生まれてきたからずっと反抗期だったかもしれないけど、やっぱ親が誰よりも1番大切な存在で愛していた。だから、試合後に見る親の澄んでいる笑顔は間違いなく俺の原動力であった。大学サッカーも楽しみにしていた親には本当に申し訳ない。怪我ばかりの大学サッカーで俺の出た試合は僅かなものであった。唯一見せられた試合は天皇杯の明治戦で、その試合も勝つことができなかった。どんな形になるかわからないけどかっこいい姿を見せるために頑張ります。長い間支えてくれてありがとう!

 

そして決勝まで駒を進め、相手は桐光学園だった。そしてマッチアップがまさかの安久レオナルド髙貴(経営学部4年/副将)。今思うとすげえ感慨深いよなあ。

決勝だからなのかすごい固いゲームで、ラストプレーであった後半アディショナルタイム8分で失点した。チームメイトの全員がピッチに倒れ込み、全員が悔し涙をしていた。あれほどの悔しさで汚れきった表情を今まで見たことがない。まさに絶望であった。

そこで得た悔しさから、より一層サッカーに真剣に打ち込もうと強い気持ちを持ったが、準決勝でしてしまった股関節の怪我(グロインペイン)がひどい状態で、半年近くサッカーをすることができなかった。

怪我が治ったのは冬の全国大会である選手権の前で、練習試合をほとんどこなせず、ぶっつけ本番で出場し、青森山田に5発のセットプレーをぶち込まれ、ベスト16という苦い結果で高校サッカーの幕を閉じた。

 

 

 

そしてサッカーは俺を立教大学という素晴らしいところに連れてきてくれた。高校まで富山で過ごしてきた俺にとって、毎日刺激的だった。聞き馴染みのない標準語を当たり前に話す人や癖の強い関西弁を話すの人などで、初めはコミュニケーションをとるのに困った記憶がある。様々な人と密に関わり感心する毎日で、日本の中でもこんなに違うのかと多様性を感じた。

 

そして立教でやるサッカーは今までやってきた中で1番楽しかった。強豪校やユース出身とか問わずみんなの技術レベルが高かった。ボール回しは多分俺が1番下手くそだったから、あの練習が嫌で早くゲーム形式やりたいと思いながらやってしまっていた。

 

なにより、すげえパスがいつでも来てそれを受けられるのが最高に気持ちよかった。小林慶太(経営学部3年/FC東京)やら嵯峨康太(経営学部2年/三菱養和)、そして山下貴之(文学部4年/國學院久我山)から放たれるボールは、俺の今までしてきた経験からでは予想外すぎるものであり、常に感覚を研ぎ澄ませなければ受けられることはできなかった。そういったボールが練習中から飛んでき、毎日が本当に刺激的であった。タカ(山下貴之)とはサッカーに限らず様々な話することが多く、タカのサッカーにかける熱い思いを知っていた。だから俺は、タカが今シーズンの立ち上げのランテストで心臓が止まった時、自然と体が動き心肺蘇生に協力できたのだと思う。あの時見た光景を数え切れないくらい思い出したからか、昨日のことのようにはっきり鮮明に覚えている。ガミさん(池上監督)が嘔吐物を受けながらも必死に人工呼吸する姿や、すごく苦しそうなタカの表情は忘れることはできない。失ってから気づくことは俺の人生でよくありがちなことだったけれど、タカと今こうして他愛のない会話やふざけたことを言い合えるのは当たり前じゃないなと感じたし、友達の大切さを身に染みて実感した。関東リーグを応援席でタカの隣で見ている時の悔しそうな言葉や表情は胸にグッと来るものがある。

 

そして4月9日の関東リーグ順天堂大学戦の後半に前十字靱帯の断裂という大学サッカーの集大成でサッカー人生1番の大怪我をしてしまった。今まで沢山の怪我をしてきたが、あんなに体全身に稲妻が走るような衝撃を受けたことがなかったから、これはただ事ではないなとすぐに察知できた。MRIを撮る前にドクターに状態を確認された時は「ああこれは損傷レベルが1度か2度に毛が生えたくらいだよ」と言われ、めちゃめちゃ安心していた。しかしMRIを取り終えた診察室に入ると、ドクターはすごく深刻そうな表情をしていて、「これは手術しないとダメだ」と言ってきた。今思えば安直なことを言ったドクターをどついてやろうかなと思える。でもその時はそんなことは思わず、それを聞いた瞬間は本当に複雑な気持ちになり、いつのまにか目から涙が溢れていた。立教大学のチームメイトや監督・スタッフ、家族など、出すときりがないくらいのいろんな人の顔が思い浮かび、混乱した。見える世界がすごく暗くどんよりして見え、生きている感じがしなかった。

 

その中で1番辛かったのは、今後立教大学のみんなと本気のサッカーができないということだった。さっきも述べたけど、みんなとやるサッカーは本当に最高だったし、みんなとサッカーをする夢を未だによく見るくらい本当に掛け替えの無いものであった。

 

日常の一部というか日常の全てであったサッカーがなくなってからは、毎日虚無感を感じていたし、サッカーに支えられて生きてきたということを実感した。しかし、サッカーを見ると怪我した瞬間や、あの時の心境などの嫌な思い出が蘇り、サッカーから離れたいと思うこともあった。

 

でも立教のサッカーを見るのは本当に大好きなことだった。

怪我してから見るサッカーは以前見てきたサッカーとは大違いであった。サッカーができていた時は、あのプレーは自分だったらこうするとか、あのプレー良いなあ参考にしようとかいう感じで自分に置き換えたりして自分にプラスになるように見ることがほとんどだった。しかし怪我をしてからは、すごく視野が広がった感じがする。観客の熱く盛り上がっている様子や、ガミさん含めスタッフ陣の選手よりも闘争心を剥き出しにして戦っている様子。その姿を見て、すげえ良い環境でサッカーできていたんだなあと沁み沁み感じた。

 

試合の勝利後は何より格別であった。

タスク(吉田奨/現代心理学部4年)のめちゃめちゃ嬉しそうな表情や、リョウタ(久保庭良太/スポーツウェルネス4年)のなんだか満足してなさそうな様子、レオ(安久レオナルド高貴/経営学部4年)の「日夜飲むぞー」とか言うことを、聞いたり見たりするのは、すごく気持ちが上がることだった。最高な仲間を持ったんだなと心の底から思った。あと何度もあの景色が見れると思うと楽しみで仕方がない。

 

 

あの時こうしてたらどうなっていたのだろうということを考えてしまうことがよくある。ずっと目指してきたプロサッカー選手になれなかったから後悔がないと言ったら嘘になる。でもほとんど後悔はない。サッカーが沢山の経験をさせてくれた。そして沢山の景色を見せてくれた。これは間違いなく俺の唯一無二の素晴らしい財産になると思うし、年寄りになってからも「あの経験があったから今のわしがある」と言えるはずだ。

 

新たな舟をいつ作って出航できるかわからない。しかし形は変われど、波と風は常に舟を押してくれている。あとは僕次第だとおもう。素晴らしい仲間と愛する家族を大切に精一杯生きていこうと思う。

 

みなさま

読んでくださりありがとうございました!


 

 

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